影の針
亜希のやつ、いきなり通学かばんを放りだして高さ二メートルのブロック塀をよじのぼりやがった。ほかの三人が止めるひまもない。塀を乗り越える瞬間、制服のスカートがひるがえってその下のものがばっちり見えてしまい、おれと健太郎はあわてて目をそらした。桜がためいきまじりに呼びかける。
「ちょっと亜希、スカートはいてるんだから気をつけて」
「あー、すっかり忘れてた。へへへ」
能天気な笑い声が塀のむこうから返ってきた。中学生になって三か月たつが、いまだにスカートで過ごすのに慣れないらしい。
やがて錠をはずす音がして、さびついた通用口ががたがたとひらいた。亜希が顔をのぞかせて手招きする。
「ほれ、はやくおいで」
住宅地とはいえこのあたりはさびれており、犯行を見とがめる人はいなかった。おれたち三人は亜希の荷物を拾うとそそくさと通用口をくぐった。巣に帰る途中であろうカラスの鳴き声が「アウト、アウト」と聞こえた。
おれたちがなぜ学校帰りに泥棒のまねごとなどしているかというと、授業の休み時間に亜希の言い出したことがきっかけだった。幼なじみのおれたち四人のなかでは、むかしから一番のトラブルメーカーは亜希と決まっているのである。
「町はずれの幽霊屋敷って知ってる?」
知らないと答えたのはおれと健太郎。桜は聞いたことがあると言った。亜希が嬉々として説明してくれたところによると、その屋敷でむかし首を吊って死んだ人がおり、空き家になってひさしい今でも幽霊が出るのだそうだ。
「というわけで、学校の帰りに見物に行こう」
「一人で行け」
健太郎がそっぽを向いた。こういうときおれや桜は抵抗は無益だと心得て最初から逆らわないが、健太郎はいちおう反対する。
「健太郎はオバケがこわいんだって。あたしたち三人で行きましょうか」
「こわいんじゃない。バカバカしいから行かないんだ」
「そうだよね、うんうんわかってるわかってる」
「違うって言ってるだろう。もういいわかった行ってやる」
いつもどおり簡単に言いくるめられた。もっともそれはしかたない。健太郎は、あとついでにいえばおれも、亜希に気があるのでどうしても強く出られないのだ。亜希は暴走特急だが一方で愛嬌もあって、いっしょにいると楽しい。胸も大きい。中学一年生女子としては破格に大きい。そのうえさっき塀を乗り越えたときのような無防備なところもあって、健全な少年にとってはもういろいろとたまらんのであった。
草ぼうぼうの裏庭を横切って、おれたちは屋敷の裏口までやってきた。屋敷はコンクリート製の二階建てで、昭和の終わりごろに建てられたものだそうだ。長いあいだ放置されているせいで壁はよごれ窓はくもり見るからにみすぼらしいが、傾いたり崩れたりはしていない。
健太郎がステンレス製のドアのノブをつかんで回したが、当然のことながらあかなかった。
「鍵がかかってるな。どうする」
「郵便受けの中とか植木鉢の下とかに鍵を隠してあったりして」
と言ってドアの横にある枯れ草の植わった鉢を持ち上げたら、ほんとうに鍵が出てきたから驚いた。まさか本物の鍵のはずはあるまいと思ったが、ためしに鍵穴に差し込んでみると、ぎしぎし引っかかりながらもちゃんと回った。
「おい、ここって空き家なんだよな」
「ふつう鍵を置いて引っ越したりしないと思うけどな」
「よっぽど急いで引っ越したのかしら」
「せっかく錠前破りの練習してきたのに」
最後の不穏な発言はもちろん亜希だ。聞かなかったことにしてドアを開ける。そこはせまい靴脱ぎで、その先に薄暗い通路があった。かびくさい空気がただよった。
「うわあ、すげえほこり」
「あとクモの巣も」
男二人の常識的な感想につづいて、亜希がわくわくした声で言う。
「いい雰囲気だね。これなら幽霊に会える見込みがありそう」
「足跡がついてないところを見ると、長いあいだだれも入っていないみたいね」
厚くほこりの積もった床をひと目みて、桜がそう推理した。どうやら空き家であることはまちがいないらしい。亜希はためらいなく中に入り、土足で通路に進んだ。健太郎があきれた声をあげる。
「おまえ、人さまのうちに土足で……」
「健太郎が靴を脱ぎたければ脱げばいいよ。あたしはいやだ。ほこりに隠れて釘とか画鋲とか落ちてるかもしれないし」
「不法侵入しておいて土足ぐらい今さらよね」
あっというまに論破されて、健太郎もしぶしぶそのまま上がり、おれもそれにならった。通路はごく短く、左右と突き当たりにひとつずつ出口があった。女性陣はすでに右の戸をあけて中をのぞいている。
「洗濯機と乾燥機があるけど、これって洗濯部屋ってこと?」
「たぶんそうね。大きい屋敷だから洗濯専用の部屋をつくったんでしょう」
左がわは物置だった。大工道具、庭道具、段ボールの残骸やいろいろのガラクタが乱雑に積み重なり、その上にほこりとクモの巣がふんだんにかかっている。
おれたちはどんどん進んで行った。正面の扉の先は台所だった。食器棚が倒れているのは、何年か前に起こった大地震のせいだろうか。台所のとなりは居間で、ソファやテーブル、時代を感じさせるブラウン管テレビなどが残っていた。台所と居間からは玄関ホールに出ることができる。ここはシャンデリアが床に落ちており、あたりじゅうガラスの破片だらけだった。健太郎には悪いが、土足で上がったのは正しかったと言わなければならない。一階にはほかに大広間があった。テーブルクロスのかかった大きなテーブルでは一度に二十人ぐらい食事をすることができるだろう。この屋敷の持ち主はかなり羽振りが良かったようだ。あとは浴室とトイレ。
「家具が置きっぱなしになってるのが多いな。やっぱり引っ越しのときにドタバタしてたのかな」
「なんか不自然っていうか、ふつうじゃない感じがするんだけど、何なのかしら」
一階をひととおり見おわって玄関ホールに戻り、おれと桜がそんなことを話し合っていると、健太郎が大きな声で提案した。
「なあ、廃墟の雰囲気もじゅうぶん味わったし、そろそろ帰らないか」
「却下。まだ幽霊を見てない」
これはもちろん亜希である。健太郎はなおも説得をこころみた。
「これだけ歩き回っても出てこないんだ、きっと幽霊は外出中なんだよ」
「なに言ってんの。二階がまだじゃない」
意地になってこういうことを言うのであればかわいくないが、亜希の場合は本気で、無邪気に言うのである。こちらもつい、しかたない、付き合ってやろうか、という気持ちになってしまう。得なやつだ。
みしみしいう階段をのぼって二階にやってきた。相変わらずほこりとクモの巣だらけだ。部屋は書斎と寝室四つとトイレ。寝室は二つが洋間で二つが和室という無節操様式だ。
「どこが変なのかわかった」
トイレをのぞいていた桜がそんなことを言い出した。おれがいっしょにのぞきこむと、桜は「そこ」と壁の一か所を指さした。トイレの個室にはかならずある、トイレットペーパーをはめるためのホルダーだ。どこが変なのかわからず、おれは思いついたことを口に出した。
「紙がないこと?」
「なくて当たりまえでしょ、空き家なんだから。そうじゃなくて、そのカバーよ」
ホルダーには色あざやかな縫い取りのある布のカバーがかかっていた。手芸に興味のないおれが見ても、ずいぶん凝った品だとわかる。
「空き家なのにカバーがかかってるのがおかしいってことか」
「それも変といえば変だけど、よく見てよ。ほこりをかぶってない」
言われてみればそのとおりだった。まわりを見ると、床や窓枠や便器にはちゃんとほこりが積もっている。桜はつづけた。
「広間のテーブルにもクロスがかかってて、考えてみるとそこもほこりがなかった。椅子には椅子カバー。寝室のベッドには掛け布団も枕もないのにシーツがかかってるし、窓にはカーテン。どれもほこりやクモの巣がついてなくて、傷んだりもしてない」
桜は顔が青くなっていた。ふるえ声で話をつづける。
「亜希は言わなかったけど、わたし知ってるんだ。じつはね、ここで自殺した人って……」
そこまで言ったとき、寝室のほうで亜希の叫び声が聞こえた。悲鳴ではない、歓声だ。書斎を調べていた健太郎も合流して三人で洋間の寝室に飛び込むと、亜希が衣装だんすからつぎつぎとドレスを取り出してベッドの上に並べているところだった。満面の笑顔で言う。
「これ見てよ、すごいよ! パーティーに着ていけるようなドレスがたくさん!」
だが桜の話を聞いた今では、あきらかにそれは異常だとわかる。ドレスはどれも長いあいだ放置されていたはずなのに、虫も食っていなければ色もあせていないのだ。
「あのね、みんな、ちょっと聞いて」
桜が声を振りしぼり、全員が注目した。
桜は祖父母からこの屋敷についてくわしく聞いたことがあるのだという。
かつて屋敷に住んでいたのは、洋服を製造する会社の社長一家だったそうだ。その会社の工場に、腕のいいお針子がいた。およそ針仕事とあれば和服洋服の裁ち縫いはもちろん、小物を作ったり刺繍をしたり、はては毛糸やレースの編み物もできるという達人だった。ただ、病気の母親と二人暮らしで家計が苦しかったので自分はいつも粗末な服を着ており、そのことを社長からひどく馬鹿にされていじめられていたらしい。ちょうどバブルの時代で、みすぼらしいものへの風当たりはひときわ強くなりつつあったのだ。やがて母親が亡くなると、その人は社長の自宅に侵入して庭の木の枝で首を吊った。それからまもなく屋敷に幽霊が出るという噂が立ち、社長一家は逃げるように引っ越していった。
「ということは何、その幽霊がずっとここに居ついて針仕事をしてるってこと? このドレスとかシーツとかテーブルクロスとかカーテンとかは引っ越しのときに置いて行ったんじゃなくて、あとから幽霊が作ったってこと?」
ベッドの上に出したドレスを興味深そうに見ながら、亜希がたずねた。桜は青い顔でうなずいた。
「だって、こんな何十年も人の住んでない家に新品同然のカーテンがかかってるなんて、普通ありえないじゃない」
ほんとうに幽霊がいるのかもしれないと考えたらこわくなってしまったらしく、桜は亜希の腕にしがみついておびえている。ほかの三人は顔を見合わせた。裁縫の得意な人が死んだあとも裁縫をつづけているというのは、ありそうな話だ。なんだかおれもほんとうに幽霊がいるような気がしてきた。少なくともこの屋敷に奇妙なところがあるのはたしかなのだ。おれはせきばらいして言った。
「まあ、だいたい見て回ったし、そろそろ外に出ようぜ」
「そうだね。幽霊に会えなかったのは残念だけど、それはまたの機会に」
亜希だけはまだ幽霊に会う気まんまんのようだった。
「なんだよまたの機会って。おれはもう付き合わないぞ」
「おれもごめんだ」
男二人は口々に次回不参加を表明し、桜にいたっては物もいわずに亜希の右腕をにぎりしめてふるえあがった。亜希は左手で桜の頭をポンポンとなでた。
「わかったわかった。ひとまず出ましょ」
そのときおれは気がついてしまった。亜希の右わきには桜が張りついている。そしてこちらに向いた左わきに……。
おれは斜め上にさっと視線をそらした。それからとなりにいる健太郎を振り返った。健太郎もあせった顔でおれを見て、亜希のほうへかすかにあごをしゃくった。おれは小さく首を振った。口に出すなという合図。こんなこと、とても言えない。健太郎は迷う表情をみせたが、結局はうなずいた。亜希と桜が部屋を出ていくのを、おれと健太郎はなにごともなかったふうをよそおって追いかけた。
「さ、さあ、はやく外に出よう」
「そうだな、もう暗くなるし家に帰らないと」
「なに言ってんの。まだ四時じゃない。まだまだ明るいよ」
「いや、その、はやく帰ってあしたの授業の復習をだな」
「復習じゃなくて予習でしょ。それにあんたそんなのしたこと一度もないじゃない」
どうもいけない。なにかしゃべるたびに態度が不自然になるようだ。おれと健太郎はだまって足を動かした。ほこりの積もった廊下を抜け階段を下りて最初の通路を逆戻り。そのあいだも亜希の左がわについ目がいきそうになるのをこらえて、ひたすら歩くことに集中する。ほどなくおれたち四人は裏口から庭へと脱出した。
「で、そこの男二人。さっきから何を隠してんの」
屋敷を出たとたんに亜希が振り向いて問い詰めてきた。おれと健太郎の様子がおかしいことにはとっくに気がついていたようだ。
「なんのことでしょうかアネさん。あっしらいつもどおりですぜ」
「だれがアネさんよ。屋敷の外に出ることになったあたりからかな、二人ともずっと上の空じゃない」
「そ、そんなことないと思うけど。なあ?」
「そうそう」
二人がかりで必死にごまかそうとしたが、無意味であった。だいたいこうして向かい合ってしゃべっているあいだも顔はそらしっぱなしなのだから、いつもどおりだと言ってみたところで説得力のかけらもないというものだ。亜希の右側にくっついていた桜は屋敷を出ると同時に落ち着きを取り戻してすました顔で離れていたが、左わきは、おお、何といえばいいのか。そうこうするうちに亜希の不機嫌顔の圧力に健太郎がついに屈した。
「その、亜希。落ち着いて聞いてくれ」
「よせ、健太郎。言うんじゃない」
「止めるな。いっそひと思いに教えてやったほうが親切だ」
「なんなのよ、さっさと言いなさいよ」
もはやどうにもならない。おれは天をあおぐ。健太郎は告げた。
「亜希、おまえのブラウスの左わきのところにだな……」
「うん」
「さ、裂けめができてて、ブ、ブ、ブラジャーがチラチラと……」
「はい?」
そうなのだ。いつどこでやったのかはわからないが、何かとがったものに引っかけたのだろう、制服の半袖ブラウスの左わきが長さ五センチほどにわたってぱっくりと裂けていたのだ。そしてその下に健康的な肌と神秘的な下着の織りなす絶景が垣間見えていたのだった。気になっている女子のそのような姿は中学一年生男子にとってあまりに刺激的であり、おれと健太郎が挙動不審になってしまったことはむしろ当然ではあるまいか。
「はやく言えバカ!」
亜希はおれたち二人にゲンコツをみまったあと、左わきを調べた。そしていぶかしげな顔でこちらにずいとその部分を見せつけてきた。あわてて顔をそむけようとする男二人に、ドスのきいた声で言う。
「見なさい。どこも裂けてないんですけど」
「ほんとだ。なんで」
裂けめは見当たらなかった。だがさっき屋敷のなかで見たときはたしかに裂けていたのだ。一瞬見ただけだが、記憶に焼きついている。あれは幻だったとでもいうのか。
そのとき、いっしょにのぞきこんでいた桜が声をあげた。
「ここ、継ぎがあたってる」
「え、こんなの知らない」
白い布地に白い糸なので見えにくかったのだが、裂けめに裏から布を当てて繕ってあるのだった。誰がしたのか丁寧な仕事ぶりだ。亜希が無表情で聞いてきた。
「裂けてるのを見たのはいつ?」
「二階にいるとき」
「ということはつまり、二階からここまで来るあいだに、だれにも気づかれずにだれかが繕ったってことになる……よね……」
気づかれる気づかれない以前に、着ている服に歩きながら継ぎを当てるなんて、どんな裁縫の名人にも不可能だろう。だがもしかしたら、幽霊にはそんな芸当もできるのだろうか。
桜が屋敷を振りあおいで、かわいた声で言った。
「たぶん、裂けたままにしておきたくなかったんだろうね」
ひんやりした風が荒れほうだいの庭をざわざわと吹いて行った。