この距離に、名前はまだない
「それじゃあ今年の夏、数学部合宿やります!」
金曜の部活終わり。
遠野がふざけたテンションでホワイトボードに「合宿要項」と書き出す。
「1泊2日で県内の研修施設。勉強中心だけど、夜は“解法ディベート”やるぞー!」
「わー……」と喜ぶ声の中、紅葉は静かにうなずいた。
その横で、日下がぽそっと言う。
「こういうの、紅葉は得意そうだよね」
「……得意、ですか?」
「だって、黙ってても集中できるし、数字と話してるタイプでしょ?」
「……まあ、そうかもしれません」
葵が、そのやり取りを見ていた。
笑っていたけど、どこか遠くを見るような目で。
後日、班分けと部屋割りの発表。
合宿は1年〜3年混合で4人部屋。
1年生女子は、紅葉と葵が同室になった。
「……ふたりで、よかった?」
葵が聞いた。
紅葉は一瞬、何と答えていいかわからなかったが、うなずいた。
「うん。葵となら、安心する」
葵は、その言葉に微笑んだ。
けれど、どこかその笑顔は、薄いガラスのように儚かった。
金曜放課後。
葵と紅葉は、図書室で勉強することに。
「合宿の予習、したいなと思って。
紅葉、付き合ってくれる?」
「うん。いいよ」
ふたりで問題集を開く。
けれど、解いていくうちに、また“差”が浮き彫りになる。
「紅葉、これ……もう解けたの?」
「……うん。でも、葵の考え方も面白かった」
「そう言ってくれるけど……やっぱり、ずるいよ」
「え……?」
「紅葉って、どこか“気づいてないふり”してるよね。
自分が、私を追い抜いていくことに」
紅葉は、答えられなかった。
「……でも、嫌いにはなれないの。
悔しいのに、尊敬してるから」
葵の言葉が、心に突き刺さった。
帰り道。
ふたりは夕暮れの坂を並んで歩く。
「……合宿、楽しみだね」
紅葉が言った。
葵は、少しだけ間をおいて答えた。
「うん。楽しみにしてる。
……ちゃんと“同じ部屋”で、いられるといいね」
その夜、紅葉はノートにこう記した。
「同じ問題を解いても、
同じ部屋にいても、
“同じ気持ち”にはなれないことがある。
でも、私はまだ、それを手放したくない」