雨音と、証明の途中
午後、急な雨。
下校時刻を過ぎても、数学部の部室にはぽつんと電気が灯っていた。
紅葉はひとり、ノートを開いていた。
問題は、合同な図形の移動と対応関係。
その証明の途中で、ペンが止まる。
(……移動の証明って、言葉で書くのが難しい)
彼女は“説明”が苦手だった。
「どうしてそうなるのか」は、自分の中では“わかっている”。
けれど、人に伝えるには“ことば”が必要だ。
(私、やっぱり、“共有”が……)
「……いるんだ、あんた」
突然声がして、紅葉はビクリとした。
振り返ると、傘も差さず、髪が濡れかかった日下が立っていた。
「雨、すごくなってきたね」
「……うん」
ふたり、並んで座る。
ノートの上に、しばらく沈黙が降る。
雨音だけが静かに聞こえる。
「……私さ、昔は数学、きらいだった」
唐突に、日下が言った。
紅葉は少し驚いた顔で、横を向く。
「理由は、“説明される”のが苦手だったから。
他人の言葉って、なんか自分に合わないんだよね。
でも、図形って……勝手にわかるとき、ない?」
「……あります」
「でしょ。だから、私は“説明しないでくれる人”となら、やってけると思った」
日下は、紅葉のノートをそっと覗く。
まだ途中の証明。紅葉は少し焦る。
「ここさ、“等積変形”じゃなくて、“合同移動”に言い換えたら綺麗になるよ」
「……言葉、苦手じゃなかったんですか?」
「うん。苦手。でも、使うときだけ使えばいい。
全部しゃべんなくても、伝わる距離ってあると思ってる」
紅葉は、ノートにペンを走らせる。
さっきまで止まっていた証明が、するすると流れ出す。
(不思議だ。言葉がなくても、進める会話がある……)
しばらくして、雨が弱まった。
「じゃ、行くわ。……また、静かに数学しよう」
日下はそう言って、先に立ち上がる。
紅葉はその背中を、ずっと見つめていた。
その夜、紅葉はノートにこう書いた。
「沈黙は、拒絶じゃない。
わたしは、声をかけなくても、誰かと“解いて”いけるのかもしれない」