問いが返ってきた日」
火曜日・静かな朝
「おはようございます」
凪の声は、いつもよりほんの少しだけ大きかった。
数学部の部室、春の光が差し込む午後。
紅葉は、自作のプリントを手渡すつもりで、席に座った。
しかし、そこには──すでに**凪からの“問い”**が置かれていた。
【凪の問い】
「0 × ∞ は、なぜ“わからない”のに、知ってる気になるんですか?」
※先輩がよかったら、教えてください。
紅葉は、一瞬、息を飲んだ。
それは、まさに彼女が1年前、心の中で繰り返し飲み込んでいた問いだったから。
“知ってる”と“わかる”の違い
午後の自主ゼミ。
紅葉は、凪の問いに真正面から答えることにした。
紅葉:「“0×∞”は、“未定形”って言うんだ。
数学では“定義できない形”なんだけど……
私たちの感覚は、なんとなく“0だから0じゃない?”とか“∞だから∞じゃない?”って思っちゃう。
それって、“計算”じゃなくて、“予感”なんだと思う」
凪:「……予感?」
紅葉:「うん。どっちにも引っ張られる。
“無”と“無限”が混ざってて、どこにも着地できない。
でも人間って、“わからないこと”にも“意味”をつけたがるんだよね。
だから、“知ってる気になる”。
それは、悪いことじゃないよ。
でも、本当に数学したいなら──“わからない”ことを“わからない”まま大事にする、ってことだと思う」
凪の言葉
凪:「……それって、先輩が前に言ってた“沈黙する数”と同じですか?」
紅葉:「うん。たぶん“未定形”って、“しゃべらない数”なんだよね。
でも、そこにある静けさが、私たちを引きつけてくる」
凪:「……なんか、嬉しいです。
数学って、“問いに答える”だけじゃなくて、
“問いを返せる”場所なんですね」
その日の夜・紅葉のノート
■高校2年・第3週メモ
・凪から“問い”が返ってきた
→ 指導が対話になった瞬間
・0×∞は“わからないけど、知ってる気がする”
・でも、その“知ってる気”をちゃんと見つめることが、数学の入口
・数学とは、問い返されてこそ“わたしのもの”になる
翌朝、ホワイトボードに書かれた言葉
次の日、部室のホワイトボードに、凪がこっそり書いていた。
「“わからない”って、遠くにあるんじゃなくて、
目の前の数式の中に、ちゃんと立ってる」
紅葉はそれを見て、微笑んだ。




