90分の孤独
午前8時45分──校内数学選抜戦 本番開始5分前
会場は、いつもより静かな視聴覚教室。
30人の生徒が、机にペンと消しゴムを置き、静かに開始を待っている。
紅葉は最前列、ひとりで座っていた。
深く息を吸って、ノートの余白に日付を書き込む。
2025年10月×日──
「今のわたしで、どこまでいけるか」
チャイムが鳴った。試験開始。
1問目──“素数と平方数のあいだ”
「a²+1が素数となる自然数aをすべて求めよ」
紅葉は問題を読むとすぐ、
式の余白にいくつもの数列と条件を書き出す。
早い。だが、彼女はすぐに次へ進まない。
証明の裏取り、反例の検討、なぜそれ以外は成立しないのか──
一問に10分、かけていた。
試験開始40分経過──第5問目
時計の針が進む。
(あと50分。なのに……まだ半分もいってない)
けれど紅葉は、焦る代わりに手を止めた。
視線を落とし、自分の心の中に問いかける。
(私は、答えを“並べる”だけでいい?
違う。わたしは、考えた軌跡ごと残したい)
そうして、彼女は再びペンを走らせる。
試験終了10分前
第9問まで終えた。
最後の10問目は、証明問題。しかも──
「ある整数nに対し、
n³+2nが6の倍数であることを証明せよ」
(中学レベルにも見えるけど、たぶん試されているのは“形式”じゃない)
紅葉は、いくつかの方法を頭の中で並べた。
数式変形、因数分解、構造的アプローチ、そして──
“なぜこの証明が美しいのか”
最後の2分、紅葉は小さな余白に一言だけ書き添えた。
「この証明は、“偶数×連続する整数”の性質を利用している。
数のリズムを感じて、式が導く音を聴いた」
試験終了
ペンを置き、時計を見上げる。
教室の静けさが、ひときわ澄んでいた。
(ああ……終わった)
一人きりで考え続けた90分。
誰とも話さず、ただ「自分の思考の深さ」だけを信じた時間。
結果発表(翌週)
掲示板の上位3人の名前。
1位:日下 隼人(96点)
2位:真城 紅葉(81点)
3位:北原 瑛子(80点)
紅葉の名が、確かにそこにあった。
「……2位だって。すごいじゃん」
葵が隣で笑っていた。
「うん。ありがとう」
「でも、“点数”は気にしてない顔してるね」
紅葉は小さく笑う。
「“何点”じゃなくて、“どう考えたか”だから。
今回は、それを全部書ききれた」
その夜、紅葉のノートにはこう記されていた。
「答えだけじゃ、伝わらない。
わたしは、考えたすべてを残したい。
誰にも見られない90分でも、
わたしは、わたしに恥じない“証明”をしたかった」