教室には、彼がいない。なのに
夏休み最終週。朝の教室。
廊下から見える空が、すこしだけ秋の色を帯び始めていた。
久しぶりの登校日。
紅葉は、自分の席に着くと、カバンからノートを取り出した。
『ε-δの感情表現』
十河 理──
その名前を見つめているだけで、
思考の深い海に、再び引きずりこまれそうになる。
「ねえ、紅葉」
隣の席から、葵が声をかけてきた。
「……うん?」
「今日、昼休み、数学室行こうよ。夏ゼミの報告、まとめちゃわない?」
「……わかった」
葵は笑っていた。でも、その目の奥が、どこか探るようだった。
(“十河”って、やっぱり特別だった?
わたしじゃなくても、よかったんじゃない?)
そんな声が、自分の中に広がっていた。
昼休み・数学室
ホワイトボードには、合宿やゼミの成果が書き残されていた。
そこにふたりで、新たなレポートを加えていく。
その作業は、無言で続く。
けれど紅葉が、ふと手を止めて言った。
「十河くんって、静かだけど、強かった。
まっすぐ“証明だけを見てる”感じだった」
「……ふーん。
じゃあ、私たちのときみたいに、
“誰に伝えるか”とか、そういうのはあんまり考えないの?」
「たぶん、違う種類の“美しさ”を見てるんだと思う」
葵は小さく笑った。
「……なんか、それってズルいね」
「え?」
「“わたしには見えないもの”を、一緒に見てきたってこと、
すごく遠く感じるから」
紅葉は、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、それ以上何も言えなかった。
放課後。
紅葉は、誰もいない部室に残り、
十河とのやり取りが詰まったノートを開いた。
けれど、それをそっと閉じて──
代わりに、**夏の初めに葵と作った「数のプレゼン」**の資料を、もう一度広げた。
そこには、丁寧な字で書かれた葵の台本と、紅葉が添えた式たちが並んでいた。
「素数のリズムは、あなたの鼓動と似ている」
「“伝える”って、こんなに難しくて、だから美しい」
(十河くんの数式もすごかった。でも──
わたしが“変われた”のは、葵といた時間だ)
その夜、紅葉のノートにはこう記されていた。
「一緒に数式を並べた人が、
たとえ同じ定理を証明しても、“違う景色”を見ていた。
でも、それでもいい。
わたしは、葵と見た風景を、忘れたくない」