わたしの数式に、あなたがいた
夏休み後半・全国高校数学オープンキャンプ
──2泊3日、全国から選ばれた30人の数学好きが集まり、
“問題を通して互いを知る”をテーマに行われる夏の知的祭典。
紅葉と葵は、推薦枠で数学部代表として参加していた。
会場は、大学の研究施設を使った合宿形式。
到着早々から張りつめた空気が漂っていた。
初日の「自己紹介×1分プレゼン」。
紅葉は、人前に立つと一瞬たじろぐ。
けれど静かに、自分のテーマを語り始めた。
「証明を“書”として捉える研究をしています。
数式の配置や文字の流れに、感情の余白がある気がして──」
会場の一角、紅葉と同じく無表情な少年が小さくうなずいた。
彼の名は──十河 理。
「“証明は芸術じゃない。だが、美はそこに宿る”──
僕も、同じことを考えてました」
その夜、紅葉と十河は、図書室で再び出会った。
ふたりの会話は、沈黙と数式の間を滑るように進む。
「……ここ、√2の無理性証明で使われる“矛盾の導出”、
あなた、代入のタイミング、遅らせてますよね」
「うん。“問いを引っ張る”ことで、論理の輪郭が濃くなると思ったから」
沈黙。ふたりは、その沈黙すら“数式の余白”のように扱っていた。
葵は、少し離れた席からそれを見ていた。
胸の奥に、小さな焦りが生まれた。
(紅葉が、こんなふうに誰かと並ぶの……初めて見た)
翌日。課題発表会。
4人チームで協力し、オリジナル問題の作成と解説を行う。
紅葉と十河は同じチーム。
チームテーマは「有限と無限のあいだ──“ε-δ”の感情表現」。
紅葉は、驚くほど自然に十河と意見を交わしていた。
論理の中で言葉が生まれ、言葉の中に式が宿っていく。
(まるで、わたしの中の“もうひとりのわたし”がそこにいるみたい)
そんな感覚さえ、紅葉の中にあった。
プレゼンが終わり、葵が紅葉に声をかける。
「……楽しかった?」
「うん。すごく」
「あの子と?」
紅葉は、気づく。
葵の声が、ほんの少しだけ震えていた。
「……うん。でも、葵とやった“数のプレゼン”も、わたしにとっては大事だったよ」
「……そうだね。
でもたぶん、わたし、ちょっとだけ嫉妬してる」
紅葉は、初めて“嫉妬”という言葉がこんなにも痛くて優しいものなんだと知った。
その夜、紅葉のノートにはこう記されていた。
「世界には、自分と“同じ軌道”にいる人がいて、
でもそれは、誰かを否定するものじゃない。
数式が並ぶとき、どの項にも意味がある。
わたしと葵も、きっとその“式の中”にいる」