夜を解く式は、まだない
合宿1日目。午後3時。
県内の研修施設。山の上。
蝉の声とともに、数学部の合宿が始まった。
1年から3年まで20人以上が参加し、班分けされたメンバーたちは会議室に集まり、
まずはウォームアップ課題から。
【課題1】
「2次関数と直線の交点について、交点の数の変化を図示しつつ言語化せよ」
紅葉は、1年チームの筆頭として前に立つ。
黙々とグラフを描き、交点の個数と係数の関係を、丁寧に話していく。
それは、「静かな支配力」だった。
言葉数は少ない。けれど、説得力だけは圧倒的。
──そのとき、葵は少しだけ“引き裂かれる”感覚に襲われていた。
(やっぱり、紅葉は……“誰の助けもいらない”んだ)
夜。
「ナイトセッション」と称した、討論型の演習が始まる。
テーマは、
「ある問題に対する“複数のアプローチ”を検証し、どれが最も有効かを議論せよ」
課題は数列の漸化式の一般化。
紅葉は、“数的帰納法”と“漸化式の階差”の両方の方法を併記し、
「計算量と概念のシンプルさの観点から比較」する案を出す。
全員がうなる内容だった。
でも──
「……葵さんの意見も、聞きたいな」
と3年生に振られた瞬間、葵はほんの一瞬だけ目を泳がせた。
「……紅葉の意見に、私も賛成です。とても、わかりやすかったから」
──その言葉は、意見ではなかった。
「紅葉に負けたくない自分」と「紅葉を守りたい自分」が混ざった結果だった。
深夜。女子部屋。
歯磨きを終えて、それぞれの布団に潜り込む。
部屋の電気が消えてから、しばらくの沈黙。
そして──
「葵」
「……なに?」
「今日、ありがとう」
「……どのこと?」
「わたしの意見に賛成してくれて」
少しの間を置いて、葵は答えた。
「違うよ。紅葉の意見に“賛成するしかなかった”の」
「……え?」
「紅葉の言うことって、正しいから、何も言えなくなるんだ。
それがつらいって、言ったこと、あったよね」
紅葉は、返す言葉を持たなかった。
「でも、紅葉が間違えるところ……一度くらい見てみたいって思うの、私おかしいのかな」
「……そんなこと、ないよ。わたしも、葵の言葉に救われてる」
「ほんとに?」
「……ほんと」
葵の布団から、小さく鼻をすする音が聞こえた。
その夜、紅葉のノートにはこう記された。
「数学には答えがある。
でも、“気持ち”には、どの解法も通じないときがある。
葵の声を、“問題”じゃなく、“ことば”として聞けるようになりたい」