入部届と、円の中心
四月。
桜がまだ枝先に残る季節、昇降口の匂いが新しい靴のゴムに満ちていた。
「……ここで、合ってるよね」
そう呟いた少女は、教室のドアの前で立ち止まった。
真城紅葉。高校一年。入学式からわずか三日目。
リボンの結び目がわずかに斜めなのも気づかないまま、彼女は扉をノックせずに開ける。
「えっと……数学部、ですよね」
中にいたのは三人。
妙に陽キャっぽい男子が一人、眠たげなロングヘアの女子、そして白衣姿の顧問らしき男性。
全員が彼女を見て、しかし誰も何も言わなかった。
紅葉の声が、変に響いた。
「あ、あの……入部希望で……」
「おー、来た来た来た! 新入生じゃん? ねえ君、理系女子ってやつ? すごい! しかも見た感じちょっと陰気な感じが理系感ある~!」
陽キャ男子が近寄ってくる。
紅葉は半歩、後ずさった。
「…………えっと、はい。数学が……その、嫌いじゃないので……」
「好きとは言わないんだ?」
眠たげな女子が呟く。
紅葉は「はい……いや、でも、はい……」と意味不明なうなずきを繰り返す。
「まあまあまあまあ! 入部届けは? 名前書いて。うち、テストも大会もやるけど、自由参加。数Ⅲも平気でやるからよろしく!」
「…………はい」
そして、紅葉は名前を書いた。
「真城紅葉」。
彼女にとって、それは“円の中心”のようなものだった。
どこにいても、人に囲まれても、自分自身だけは静かにそこにある。
だから、孤独でも大丈夫だった。
「じゃ、紅葉ちゃんって呼んでいい?」
「呼ばないでください」
「わー、ごめん」
ドアの外から、遅れてもう一人の新入生が入ってくる。
こちらは明るい茶髪に、きりっとした目元。
「わたしも入部希望。早く公式戦に出たいんですけど、準備とかある?」
場の空気が一気に変わる。
紅葉は一歩後ろへ引き、数学部の中で、自分の居場所を探そうとしていた。
◆この日の紅葉のノートの余白:
「問いは好き。でも、人は難しい。
……証明できないことばかりだ。」