コインロッカー・アダルト
ある晩、就寝中の羽生は、
ガーーーーン!!! という物音で目が覚めた。
爆発音とは違う、地面から怒号が響いているかのような音だ。
そしてその後に感じたのは強い揺れである。
只事ではない事態が起きていることをすぐに悟った。
そして羽生は、ロッカーの中で身を屈めた。
強いゆれは、10分にも、30分にも感じた。
それは、自分が今いるロッカーごと、ミキサーでかき混ぜられているのではないかと感ずるほどの揺れだった。
6時になった。羽生は外の状況を確認しようとしたが、
ロッカーのドアが開かない。
おそらくはシステムが故障したのか、それとも……?
羽生は狭いロッカーの中で、精一杯内側からロッカーを叩き、脱出を試みたが、
開く気配すら起きなかった。
スマートフォンは、電波は生きているが、混線しているのかどこにも繋がらなかった……。
妙な気分だ。東京の中心で、ひとりぼっちになってしまった。
……このまま死ぬのかもしれない。ロッカーの中で誰にも気が付かれずに。
そして何年かして、コインロッカーから自分の遺骨が見つかる。
……少し前のことだ。新宿駅のコインロッカーに産まれたばかりの赤ん坊が遺棄されるという事件が起きた。
衝撃の大きさからその事件はコインロッカー・ベイビーと呼ばれた。
このままここで死ぬのなら、自分はさしずめ、コインロッカー・マン……いいや……
コインロッカー・アダルト とでも呼ばれるのかもしれない。
不思議と恐怖心はなかった。この生活を続けていくうちに生活の最小限化、ミニマリズムを悟った羽生は、
現世に未練などなく、執着も無かった。
飢えや、窒息の苦しみはあるかもしれないが、多少の苦しみなど生きていく上では仕方がないことなのだ。
ミニマリズムというのは、つまるところ『仕方がない』の哲学なのかもしれない。
激しい揺れの中で、羽生はそう悟り、やがて目を閉じた。
……
……
羽生は、眩しい光に思わず目を開けると、それは人工的な灯りであることに気が付く。
そして、こちらを覗き込んでいる顔がある。
「!! 先生!! 意識が戻りました!!」
白衣を着た女医が声を出す。久しぶりに聞く人間の声のような気がする。
……どうやらここは、天国では無いようだ。
何もできず、どこも動かせず、ただぼんやりと目を開けていると、奥から「先生」と呼ばれた男がやってきた。
「よくお戻りになられました……。ご自分のお名前、わかりますか?」
「羽生……圭介……35歳です」
「ご住所は……」
「……新宿区、西新宿、1ー3-17、JR新宿駅西口、コインロッカー0071番です」
「結構。記憶もはっきりしているようだ。
まず私は……あなたに非情な現実を告げなければなりません」
「……南海トラフですか?」
「え? …… ……ええ。そうです。 大地震が首都を直撃いたしました」
「……東京は過去100年間大きな地震を経験していません。おまけに地下は地下鉄やら何やらで穴だらけ。
地盤は最悪です。さしずめ……首都は沈没した。そうですね」
「……おっしゃる通りです。信じられないことですが、日本は分断されて、二つの大陸になりました……」
「そうですか」
羽生は、さして興味がなさそうに答えた。
「……すんなり受け入れられるのですね……」
『先生』が不思議そうに羽生に問いかける。
「受け入れる……しかありませんから。
元々私には失うものなどない。 生きているか、死んでいるか、どちらかしか変わりはありません」
『先生』は羽生がそういうと、まるで奇跡でも見ているような顔をした。
「さすがは…… 『コインロッカー・アダルト』だ」
「…… ……え?」
「あ、いえいえ。政府から選ばれただけの人間だけある。私だったら今頃混乱して再び意識を失うところでした」
「政府? …… ごめんなさい。なんの話ですか?」
「? ……まさか、ご自身の立場をご存じない?」
『先生』は、ますます興味深そうに羽生と向き合った。
「私の立場……ってなんのことです?」
「『近い将来襲ってくるであろう天災に備えて、完璧な合理化・ミニマリズムを体現する人間を訓練、試験する計画』です。
2020年ごろから始まりまして、『コインロッカー・アダルト・プロジェクト』と呼ばれました。
実施所は、東京は新宿駅、渋谷駅、関西では大阪駅と京都駅です。
何人かの候補が、家賃の安さだかなんだかにつられて、あなたの住んでいたようにコインロッカーで生活していたのですが、物の数日で逃げちゃって、
それが貴方が現れた途端に安定したそうなのです。
貴方は今、完成された『コインロッカー・アダルト』として知られていますよ」
「そんな……ことが……」
「新宿での貴方の生活モデルはデータ化され、それで震災後の生活の最適化に活かされております。
これからの元都民に課せられるのは、復興の兆しもない中、避難所で与えられる最も限られたスペース、最も限られた資源で工夫しながら生きていく知恵と精神力です。
ミニマリズムの救世主なんですよ。貴方は」
それは全く聞いていなかった。
もしかしたら、死畑から渡された賃貸契約書をちゃんと読めば書いてあったのかもしれないが、
当時の羽生にはそんな余裕は、無かった。
流されるがまま、明大前の家を追い出され、
流されるがまま、都庁のお膝元で救世主になっていたのだ。
『先生』は続ける。
「これからは、貴方のような生き方が求められます。その先駆者として、皆が貴方に期待していますよ」
それに対して羽生は、目を閉じて答えた。
「任せてください。多くを望まなければ、人間は生きていけるものです」
コインロッカー・アダルト 了