新宿駅徒歩0分の生活
羽生は、ついにコインロッカーでの生活を始めた。
まず初日、荷物を詰め込む時点で問題が発生した。スーツケース? 入らない。 バックパック? なんとか収まるが、羽生の胴体の上に置くしかない。
「これは……寝返りが打てないな……」
何とか荷物を整理し、身体を横たえる。頭上にはわずかな隙間。視界の大半は金属製の壁。
「未来的というか、棺桶みたいだな」
……ふと、羽生の頭に『終の住処』と言う言葉が浮かんだ。
終の住処……つまり、棺桶。
羽生は激しく頭を振った。そんな冗談は笑えないのだ。
ところで人目を気にして、遅い時間に引っ越しを試みたのだが、いつまで待っても新宿という駅から人気がなくなるなんてことはないのだ。
むしろ視線は集まり、動画を撮るものまで現れた。
……これは慣れるのに時間がかかりそうだ。
それだけではない。都庁のお膝元だというのに新宿駅の治安は最悪だった。
羽生が、少しでもロッカーと言うマイルームの中で快適に過ごそうと、
頭をどっちにしたらいいのかであれこれ出入りしているうちに、
それを面白がった酔っ払いに絡まれた。
「やめてください!!」
酔っ払いが、羽生をロッカーから無理やり引っ張り出そうとするのを
羽生は半ば泣きそうな声で振り解いた。
……交番が西口にあって助かった。駆けつけた警官に、酔っ払いは暴行罪、住居不法侵入罪、強盗未遂で現行犯逮捕された。
「これからも羽生さんの安全は、我々が守りますので、その、頑張ってください」
警察の対応は、不自然なくらい親切だった。
羽生は、心強さと心細さが同時に襲ってくるという不思議な感覚に陥っていた。
思えば、なぜあの時警官が、自分の苗字を知っていたのか、羽生は疑問にすら思わなかった……。
ともかく、こうして、羽生の奇妙な新生活が始まった。
羽生がコインロッカーで暮らし始めて、半年が経った。
『住めば都』と言う言葉があるが、たとえそれが都でなくてコインロッカーでも、慣れてしまえば人間はある程度どんな場所でも適応できてしまうものだ。
「新宿のコインロッカーに住む男」と言う不名誉な人気とレッテルさえ目を瞑れば、それほど悪い暮らしでもなかった。
まずは仕事で忙しい羽生はそもそも家にいることがあまりなく、
死畑が言った通り生活面で苦労することは『あまり』なかった。
朝6時に強制的にロッカーが開く。そこから羽生の1日は始まる。
羽生はすっかり、5時40分には目が醒めるように体が出来上がっていた。まず会社に寝坊することは無くなった。
夜の23時には強制的にロッカーが閉まる。
最初の何日かは手痛い失敗があり、部屋で寝れずにホームレスのような生活を過ごすこともあったが、
羽生はこの失敗から学んだ。
どうすれば23時までに家に帰れるかを羽生は頭の中で計算するようになった。そうやって羽生は時間の使い方を学んでいった。
元々整理整頓の苦手な羽生だったが、部屋の掃除はすぐに終わった。
トイレは西口のトイレを使うので、清掃員がやってくれる。
唯一、洗濯物に難儀した。コインランドリーは西口から5分ほどのところにあるが、
洗濯ができないので、特に下着を駅のトイレの水で洗わないといけないという事態に陥った。
まあ……月3万円の物件と考えれば仕方がない。
しかし不便さ以上に、『狭すぎる部屋』と言うのは、考えようによっては、
自分の生活において、何が最低限必要でそうでないかを考える良い機会になり、羽生は無駄な買い物をしなくなった。
コンビニにはまず寄らない。部屋で飲み食いできるスペースがないからである。
自動販売機、使用しない。家に持ち込めないからだ。
このようにして、羽生は金の使い方も学んでいった。
酒、タバコ、辞めた。
それこそこれまでの羽生にとっての精神安定剤の二種だったが、
缶ビールは家では飲めない。外で飲みに行こうにも、
羽生の『部屋』はコインロッカーの最上段であり、当然のように階段も梯子もない。
酔っ払っていると、部屋まであがれないのだ。
そして二日酔いともなると今度は部屋から降りれない事態が発生する。
いっときのアルコールで得られる快楽よりも、羽生はその日の快眠を選んだ。
タバコも同じである。当然家で吸えない。
外で吸えばいいが、タバコの紙ゴミが洗濯時に邪魔で仕方がないのだ。
それとアイコスの充電に電源を一つ使わないといけない。
羽生は、自然とタバコを辞めた。
ついでに、ゴミを衣服のポケットに溜めない習慣を身につけ、清潔でいる方法を学んでいった。
人の目を気にしなくなった。不思議なことだが、
確かに後ゆびを刺されている感覚はあるが、都庁のお膝元で堂々と暮らしているのだ。悪いことをしているわけではないので、
後ろめたいことはない。
このようにして、羽生は善悪の判断や、表面上のことに騙されない知恵を身につけた。
先ほども言ったが、羽生の住んでいるロッカーは最上段にある。つまり、
出入りが便利とはいえない。
両手だけでで最上段まで自分のトータル・ファットを持ち上げる必要があった。
羽生はそのための適正体重を維持するようになった。
新宿駅にはジムなんてたくさんある。
このようにして、羽生は体の使い方さえも学んでいった。
環境が人間を作る、いや、住む部屋が人間を作ると言うのはある程度当てはまっていたようであり、羽生は段々とミニマリストになっていった。いや、
ならざるを得なかった。
……ある晩のことである。
「ご苦労様です」
羽生は、帰り際、西口交番のお巡りさんに挨拶するのが日課になっていた。
と言うよりも、自分の庭を警備してくれたり、何かと相談に乗ってくれる管理人さんのように見えてきつつあった。
羽生が挨拶すると、お巡りさんもお辞儀で返した。
「もうここでの生活に慣れましたか?」
「そうですね。苦労も多いですけど、それはどこに住んでいても同じことですから」
「頑張ってください」
お巡りさんに言われて、羽生はここ数日間感じていた疑問をぶつけてみた。
「その、『頑張ってください』って言うのは、なんなのでしょう? 私はただここで住んでいるだけですが……」
するとお巡りさんは、一瞬『しまった』と言う顔をしたが、やがて言葉を選び、
「いえ……。私には、とてもできないことですので」
と言った。
それが言葉以上の意味を持つ言葉なのか、その時の羽生にはわからなかった。