瀬戸不動産の死畑
「……この辺りで、家賃5万円以内、敷金礼金なしの物件ってありますか?」
羽生圭介。35歳は今人生の危機に扮していた。
羽生が20代の頃初めて一人暮らしを始めたのは、京王線明大前駅。徒歩10分。
2k、築40年。家賃が5万円という奇跡の物件だった。
ちなみに明大前駅というのは、新宿にも渋谷にも吉祥寺にもはては西東京方面にも一本で行ける足を持ち、
学校も幼稚園も複数立っているので、警察の見回りも厚く治安良しの、都内最強の駅だ。
いかんせん初めての一人暮らしで、これが都会の家賃相場だと、10年間勘違いをしていたのが悲劇の始まりだったのかもしれない。
それは突然やってきた。
立ち退きの話である。理由は大家さんが急病を患い亡くなってしまったからである。
「申し訳ないですけど、三か月以内に立ち退きをお願いします」
との連絡を受け、羽生は新たな物件を探さないといけなくなった。
正直面倒くさいなあとは思ったが、まあ探せば何とかなるし、新生活も悪くないか。と、
最初の一か月は特に探しもせずにサボっていた。
最初に訪れた不動産屋でこちらの条件を提示した瞬間に、己の見積の甘さが露呈したのだった。
「この辺りで家賃5万円以内の物件ってありますか?」
軽い気持ちで言うと、不動産屋は目を丸くして羽生を見た。
明らかに、何を言ってるんだ? こいつは。と訴えてきている目であった。
「この条件ですと最低7万円は……かかってしまいますねこの辺だと……」
どの不動産屋を訪れても言われるのはこの一言だけだった。
そして羽生の地獄が始まった。
月7万円は今の収入から考えて、とても払えない。かといって仕事の都合上、今いる場所から離れるわけにもいかなかったのだ。
焦った羽生が最後に訪れたのは、羽生のような行き場を無くした人間が最後に訪れると言う、
言わば駆け込み寺のような不動産屋さん。そのなも『瀬戸不動産』だった。
インターネットでは、その名前も相まって『瀬戸際不動産』の名で通っている。
「ようこそいらっしゃいました」
社員の男が羽生の前に座り、名刺を差し出す。
「瀬戸不動産の死畑と申します」
本名か……?そんなわけないだろうが……
早速不安な気持ちを抑えて、本題を切り出した。
「……この辺りで、家賃5万円以内、敷金礼金なしの物件ってありますか?」
不動産屋のカウンター越しに座る死畑の顔が、一瞬ひきつったのを見逃さなかった。
「……5万円以内?」
「はい」
死畑は背後の棚からファイルを取り出し、ペラペラとめくる。途中で何度も首をかしげたり、ため息をついたりしている。
大方、想像通りのリアクションだ。絶望的なのはこっちのほうなのだが。
「うーん、まあ、このエリアじゃ相当厳しいですが……どうしてもというなら、おすすめの、『変わった物件』がありますが?」
変わった物件。妙な引っかかりを感じながらも、藁にもすがる思いで話を聞く。
「新宿駅徒歩0分、敷金礼金なし。家賃は月3万円です」
「へ?」
思わず間抜けな声が出た。
「新宿駅徒歩0分……。駅員になって働けってことですか?」
「ははは。面白い冗談ですね。まあまあ、まずは写真を見てくださいよ」
……冗談を言っているのはどっちだろう?
羽生のモヤモヤをよそに、死畑は露骨な作り笑いを浮かべ、写真を一枚差し出した。
そこには、新宿駅のホーム、ロッカーエリアに並ぶ、どこにでもあるコインロッカーの姿が写っていた。
「……これは?」
「室内写真です」
「僕にはコインロッカーに見えるのですが。」
「そうですね。コインロッカーを改造した物件です」
「は?」
「広さはちょうど人一人が横になれるサイズ。エアコンはありませんが、密閉性は抜群なので冬は暖かいですよ。
間取りの関係で、テレビや冷蔵庫は搬入できませんが、
テレビなんかスマホをお持ちでしょうから必要ありませんよね。
Wi-Fiをご利用でしたら、モバイルルーターが必要になりますので、西口のヨドバシカメラをご利用ください。
冷蔵庫も、どうせ一人暮らしですから自炊なんてしませんよね?
食べ物屋でしたらこの辺りには沢山あります。おすすめはマックですかね。
お風呂も外になりますが、サウナだったらこの辺りに沢山あります。
洗濯物も干せないので溜まるでしょうが、近くにユニクロがありますから下着関係も安く済ませられますよ
何よりこのように密閉された空間ですので、匂いが外に出ることは『あまり』ありません。
この物件、かなりお得ですよ?」
「お得……?」
「セキュリティも万全です。外から鍵がかけられるので、不審者の侵入は不可能です。
しかも最新の頑丈な作りですから震災にも耐えられる設計ですよ。」
「それは俺自身も閉じ込められるじゃないですか……?」
「大丈夫です! 時間がくると自動開閉する最新システム付きです!」
「どこに金かけてんだ!!」
常識を遥かに超えた物件に、脳が追いつかない。だが、新宿駅徒歩0分で三万円というのは、パワーワードすぎて逆に惹かれるかもしれない。
何より、羽生の今の経済状況を考えれば、背に腹は代えられない。
「……内見できます?」
「もちろん!すぐご案内しますよ」
そうして羽生は、人生初の「コインロッカー物件」を見に行くことになった。