薄暮 2
「自己紹介なんかしたか?」
面白がるように、白衣を着た死神は笑う。
「ペンダントの裏……」
「ああ、そうか」
無造作に死神は夕の首筋に指先を近づける。
夕はとっさに手で弾いた。
睨むと、死神は怯むどころか余計にからかうような笑みを深めた。
「さっきは物怖じもしなかったのに……友達の前だったからか?」
「さっき……?」
「生理うんぬんはセクハラ発言だぞ」
当の本人に指摘されて顔に血が上るのがわかった。羞恥心より、この死神をすぐ殴らなかった怒りだ。
「まさか会うとは思わなかっただろ」
「……教師の裏口就職は聞いたことないですよ」
機を逸した拳を収めて、夕は敵視を剥き出しにして睨む。
「知ってるだろ? 俺は普通の保健医」
確かに、この死神は二年前に赴任してきたのだ。ごくごく普通に。
「普通の保健医は、生徒を保健室に閉じ込めるものなんですか」
「誰かに聞かれるとマズいだろ」
「何を?」
死神は夕の肩に手を置いた。
今度は避けられない。
広い手に肩が押さえつけられている。
白い顔が屈む。
暗い瞳が夕を捕えた。
その眼光に負けまいと、夕は顔をしかめた。
「―――……お前なぁ」
鼻先に死神の吐息が触れた。
「フツーは、怯えるとかいう可愛い仕草があるだろうが」
「はぁ?」
ケンカの極意は相手から視線を外さないこと。海外出張中の兄がよく高説をたれたものだ。
「私にケンカを売ってるんじゃないんですか」
それに、
「ペンダント、まだつけてます。ご心配なく」
確かめるような手つきで死神の指が首でさまよっていたのだ。
死神は苦笑すると体を離す。
「お前、兄貴いるんだろ」
「え? 居ますけど」
自由になった体から埃をはたくよう死神の触っていた部分を払う。
首筋にも感触が残っていて気分が悪い。
「彼氏いないくせに男慣れしてる」
「なっ……」
「友達選べよ」
加奈が喋ったのか。
ふらついていた体が余計に重くなったようだ。
「おい、大丈夫か?」
寝ぼけた質問だ。調子が悪いから保健室にいるのに。
夕の体を支えようとする死神を押し退けてベッドに向かう。
「本当に寝不足なんです」
一歩踏み出す。
風が舞った。
あるはずがない。
保健室の床から風が起こるなど。
しかし一瞬の風のあと、とっさに足元に目をやると、直径二メートルほどの円状に、床が変色している。
淀んだ泥沼のような、血のような色に。
床が、ずぶり、と鳴る。
突然、靴底が泥に囚われたように沈んだ。
「なに、これ……!」
足を動かそうとするが、泥に捕えられている。じたばたしているうちに泥の中から空気の抜けるような泡が次々と現れた。泡がはじけると、泥の中から、細い枝のようなものがせり上がってくる。
ずるずると嫌な音をたてながら、細い枝が五本。
違う。
人間の手だ。
泥に塗れた人間の腕が、見る見るうちに伸びてくる。泥の間から見え隠れする、黄ばんだ棒は骨だろうか。
そう思ったとたんに、意思のなかったはずの手が夕の右足をつかんだ。ぬるりとした感触が、靴下の上から伝う。
夕は悲鳴もあげられず、自分の足をつかんでいた。だが、左足も、いつのまにか泥から現れた白骨の手につかまれている。生温い肉の腐臭と、恐ろしいほどの力でつかむ手が、ごつごつとした骨の異物感を伴って痛いほど夕の足首をしめあげる。
「はなして!」
そう言って放してくれるとは思えないが、叫ばずにはいられなかった。しかし、抵抗とは裏腹に足首をつかんだ手は泥の中へと足を引きずりこんでいく。血臭が鼻をついた。腕は一本だけではなくなっている。何本もの腕が、足や手に触れる。
「ちっ」
聞き覚えのある舌打ちで顔をあげると、死神も腕に足をつかまれている。夕は恐れよりも怒りが勝った。
「アンタのせいじゃないのっ?」
「こんな趣味の悪いことするか!」
死神は手を掲げた。
どこからともなく砂が彼の手の平に集まって、粒子が一瞬にしてあの、三叉の槍を作り上げる。同時に、死神の髪が、いつか見たように異常な速さで音をたてて伸びる。
腕が槍を取り上げようと幾つも死神の足にまとわりつく。
間髪入れず、死神は切っ先を泥に突き刺した。
鈍い音が槍に手ごたえのあったことを告げる。
「ああああああああああああっ!」
地鳴りのような、何百人も固めたような悲鳴が聞こえ出す。
「散れ!」
低く響いた声で、悲鳴が一つ一つに解かれて、浮かび上がっていく。
次々と消えていく中で、夕の足首をつかんでいた腕も耳を塞ぎたくなるような悲鳴をあげて砕けていった。
血色の沼は淀んだうめき声をあげて、地の底に沈むように円を縮める。
あとには、元通りの保健室の床が残った。
足から力が抜けた。
夕はその場に座り込む。
緊張し通しだったのだ。
鞄を抱えたまま動けなくなる。
ふと足首の靴下をさげてみる。
やはり手形に青くなっていた。
朝から最悪だ。
「おい」
そんな名前じゃない。
夕は顔を上げずに項垂れる。
柔らかく、床に黒髪がついた。
風景がにじむ。
水をかぶった時のように、歪んで、落ちる。
自分のひざに水滴が落ちた。
腕に広い手が添えられた。
だが、それにかまわず鞄をきつく抱きしめる。
「……可愛くねぇな」
苦笑が降ってくる。
そんなことはわかっている。
だが、一人で泣くことに慣れている夕にとって、人肌は刺激的すぎる。
甘えて、離れられなくなる。
「気が済んだら、好きなだけ寝ていけ」
ふわりと黒髪が去った。
夕は物足りなさを感じながら、ほ、と息をついた。