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しろがねと月  作者: ふとん
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薄暮 1

 弱りきった体から、余力が消えていく。細波のように静かに、だが、確実に、真綿で首を締めていくように魂の旅立ちを促した。

 すでに芯だけとなった命の灯火を胸に、想うのは残していってしまった彼女のことだけだった。

悔やみきれない。どうして救ってやれなかったのか。

自分はこんなに穏やかな死を迎えようとしているというのに、彼女は、今なお灼熱地獄の舞台で踊らされている。

 死の床についてさえ、起き上がることさえままならない体の奥が衝動に駆られる。あの時、彼女の手を放さなければ。

 これは自分に与えられた罰だ。

 魂の流転は、人間の業を塗り重ねていく。

 だが、これは、自分の罰なのだ。

 たとえ、魂の記憶がこれを覚えていようと、これは自分の罪だ。

 最後の血一滴まで、悔恨という罪に縛られつづける。

 最後の一息まで。

 






 開いたまぶたに、涙が乗っていた。

 朝の日差しが寝ぼけた光を反射する。

 起き上がると同時に、反射的に胸元に触れている。

 冷たい、青の石。

 指先でペンダントの先をもてあそびながら、夕は先ほどまで感じていた絶望的なまでの悲しみを反芻させる。

 恋人でも置き去りにしてきたのか、夢の中の彼は、息をひきとるその瞬間まで彼女に詫び続けた。

 夢の記憶はあやふやだが、夕の心の奥に鉛のような悲しみが深く残った。

 これで何度目だ。

 浅い眠りの時には、いつも夢を見た。

 首を吊る夢、病床で死ぬ夢、谷に落ちる夢。

そして、二週間前に見た男のように胸を串刺しにされる夢。

 いずれも自分が死ぬ夢である。

 夢はたいていが場所のわからない抽象的なものだが、時には読んでいた本の内容まで覚えていることがある。

 以前のような激しい痛みはない。

 ただ、恐怖や慟哭といった感情だけ、刻まれていく。

 辛ければ死ね。

 いつかの死神の薄情な言葉が、今は甘く聞こえる。

 幾人もの、不安や恨みを繰り返し繰り返し流しこまれるなど、悪い冗談も良いところだ。

 夕はしばらく額を押さえて、ベッドから滑り出る。

 この夢さえなければ、普通の日常なのだ。

 死神に会った次の日、新聞やニュースで建材置き場で置き去りにしてきたはずの男の記事を探したが、小さな地方欄にも、殺人事件の記事はいっさい載ってはいなかった。

 如月と言う死神に連れまわされた日から、すでに二週間は経とうとしていた。



 今でも、時折あの冷たい長い指を思い出す。

 柔らかな長い髪。

 威圧的な長身。

 耳に甘い声。

 夕を抱く強い腕。

 頬に触れた広い手。

 青い石のペンダントと一緒になって、夕の胸元で記憶が揺れている。

「ちょっと夕、顔色悪いよ?」

 学校の渡り廊下で、加奈に覗き込まれて夕は瞬く。

「最近、ちゃんと眠れなくて……」

 自分が死ぬ夢を何度も見るとはいえない。

 加奈はセミロングの髪の先を指でくるくると回して口を尖らせた。

「ダメだよぉ。ちゃんと寝なくちゃ」

「うん……」

 相槌を打ちながら、夕は眩暈を覚えた。

 どうしたのだろう。

 ふらりと、足がよろめく。

「夕!」

 加奈が慌てて支えてくれる。

 倒れはしなかったが、自分で想っていた以上に悪夢が眠りを妨げていたようだ。

 正直、辛い。

 溜息をつくと、加奈は心配そうに夕の頭をなでた。

「心配事があるなら、遠慮なく相談しなよ?」

 こういうことを素直に言ってくれる加奈の言葉が疲れた体に響く。

 涙が出そうになって、夕はこらえた。

「今日は思いっきり寝ちゃいなよ! 早退しちゃえば?」

「でも、まだ朝だよ?」

 まだ登校してきたばかりでホームルームも始まっていない。

「それに今日は、数学のテストあるし」

「ああ! そうだった!」

 夕にヤマ教えてもらうんだった、と加奈は口元を押さえる。

「でもさ、ちゃんと寝た方がいいよ。数学は五時間目だし……」

 言葉を切って、加奈は夕の肩をつかんで、

「そうだ! 保健室行こう! 保健室! 先生ならわかってくれるよ!」

と、妙に嬉しそうに言った。

 保健室には、珍しい男の先生が詰めている。背が高くて格好いい、を体言したような先生で、当然のように女子生徒に騒がれている。

 赴任したのは夕達と同じ二年前だが、白衣の美形が介抱してくれるというので当時は保健室が騒然となったものだ。

 今では、善きアドバイザーとして生徒たちの人気を集めている。

 女の友情なんてこんなものだ。

 足取りの軽い加奈の後ろをついて歩きながら、夕は妙に冷めた息をつく。

 保健室の先生は、正直苦手な部類だった。

 先生という肩書きを白衣に着せて、本人の言動はおよそ教師とは思えない。

 相談に来た生徒を壮絶な皮肉で突き放すこともしばしば。しかし、仕事だけは隙無くこなすので、他の教師たちとの折り合いも悪い。

 夕も、加奈が怪我をした時に保健室へついていったことがあるが、簡単な消毒をしただけで、加奈の処置を終えるとさっさと書類整理に戻ってしまった。加奈が、しばらく保健室に居るというので夕はありがたく保健室を出て行った。

 ドラマに出てきそうな暑苦しい先生がいいというわけではない。だが、一応は先生らしくしていて欲しいというのが、生徒の願いだ。

 気安さで、先生を選びたくない。

 ある程度の信用をおける人であって欲しい。

 その点で、保健室の皮肉屋は落第点だった。

「せんせーい。(ゆい)せんせー」

 加奈が保健室の戸を開ける。

 唯、というのが先生の苗字だ。珍しいことと、呼ぶと名前に聞こえるので、わざと使う生徒が多い。

 加奈に続いて保健室に入ると、なめらかな薬品の匂いが漂った。二台のベッドと薬品棚の奥にデスクに向かった黒髪の白衣が居る。

「友達が寝不足で、体調悪そうなんですー」

 聞いたことのないような猫撫で声で、加奈は唯先生の隣に急いだ。

 怪我をして以来、加奈はこの先生の元に足しげく通うようになっていた。彼女がご執心なのは知っていたが、目の当たりにすると複雑な気分だ。

「それで?」

 椅子を回転させて、白衣が振り返る。

 聞き覚えのある声だった。

 いや、当然だ。一度はここに来たことがある。

 夕は心の中で首を振る。

 先生の声を、最近聞いた覚えなど、ない。

「夜よく眠れないそうなんですよー。さっきも倒れそうになっちゃたから」

 加奈の話を聞きながら、先生は夕を見とめた。

 黒髪に縁取られた白い顔に、フチ無しの眼鏡をかけている。鼻筋の通った容貌には酷薄な唇が、皮肉げに笑みをたたえている。

先生でなければ借金取りかチンピラのようだ。

「朝飯は食べたのか?」

 睨むような夕の視線を無視して、気安さを覚える口調で尋ねてくる。

「食べました」

「生理、というわけでもないと」

 保健の先生なのだから当然の配慮なのだろうが、このチンピラから聞くとセクハラをされた気分になる。

「違います」

 顔色を変えて叫ぶのも癪に触るので、夕は無表情に応えた。

 ふーんとおざなりに返事をしてから、チンピラ教師はデスクの上に何かを書き付けると、加奈に渡す。

「担任に渡しとけ。コイツはここでしばらく預かるから」

「はーい。わかりましたぁ」

 やはり嬉しそうに加奈はうなずくと、今度は自分の話題に取り替えた。

「この間の話、考えてくれました?」

 加奈は白衣の肩に手をおいて、甘えるように目を細める。

「却下」

 女子生徒に甘えられてまんざらでもない顔をしているというのに、不良教師は容赦なく言葉を切った。

「ええ! そんな!」

「なんで俺が、モデルの真似事をやらなくちゃならないんだ。他あたれ他」

 しっしっと薄情なしぐさで加奈を追い払う。

 加奈は頬を膨らせている。そういえば、彼女は服飾デザイン部に入っている。見た目はモデル並の先生は、放っておけない存在なのだろう。

「あきらめませんからね!」

 それを捨て台詞に、帰り際、夕の手を握る。

「夕からも説得しておいてね」

 堅く握られて、夕もおざなりに頷く。

 戸が閉められてから、予鈴が鳴った。加奈はホームルームに間に合うだろうか。

 保健室には、チンピラ教師と二人きり。

 胸のペンダントが揺れた気がした。

 黒い髪を見ていると、奇妙な既視感を覚える。

 見覚えはある。

 それはそうだろう。保健室に来たことがないわけではない。

それに、非常識な長い髪ではない。

 だが、眼鏡の奥にある漆黒の双眸はどうだろうか。

 艶やかな黒瞳にくっきりと自分の姿が浮かんだ。

 先生が椅子から立ち上がる。

 正面に立たれると、一歩下がりたくなるような、覚えのある威圧感。

 そんなはずがない。

 ドア先に突っ立っていた夕を掠めて、先生の指が戸の、内側からかける錠を下ろした。

 鍵のかかる音にギョッとして思わず不良教師の顔を見つめる。

 口の端を上げただけの笑み。

 見たことがある。

 二週間前。

 まさか。

「久しぶりだな」

 聞くことも無いと思っていた。

「まだ元気そうじゃないか」

 加奈と話していたときとは違う、あの時と同じ甘い声。

「―――……如月……」


 死神だ。


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