白夜 2
目を閉じる暇もない。
切っ先が、青ざめた首筋をかする。
しかし、覚悟していたほどの痛みはなく、薄皮を切ったときのような鈍い熱が残った。
体が浮いていることに気がついたのはその時になってから。
誰かに抱きかかえられている。
自分では到底出しえない速さで、死神の黒コートが遠ざかった。
「……ごめん」
しぼり出すように耳元で囁かれて、ようやく我に返った。
「さっきの人……」
先ほどまで膝に乗せていた男だ。セーターの胸には、しっとりと血が染み付いている。
顔を上げると、彼も冷や汗の浮いた真っ青な顔で安心させるように少し笑んだ。冬の住宅街を女子高生一人抱えて駆けているというのに無理もいいところだ。
「……巻き込んでごめん。……君は、引き離したところから逃げて……」
穏やかに笑う人だ。温和そうな性格がにじんでいる。
「でも、あなたは……」
血まみれで、あの死神をどうしようと言うのだろうか。
「僕は、まだ、彼と……」
言いかけて、言葉を切る。彼は路地裏から少し離れた建材置き場で夕を自分の腕から優しく降ろしてくれた。
「隠れて」
短く告げて、自分は建材の前に立った。
言われた通り、夕は大人しく積み上げられた鉄骨の影に身を潜めて、外の様子が気になるので顔の端だけ覗かせた。
近づいてくる足音が一つ。また一つ。
「―――……君が鬼だと、鬼ごっこにならないね」
苦笑したのは男の方だった。
「追いかけるのは得意なんでね」
軽口とともに、建材置き場の埃と一緒に黒いコートが翻る。
死神だ。
「でも、そろそろ飽きてきたぜ。鬼の役は」
神秘的な容貌に似合わず、死神はがりがりと艶やかな頭をかいた。
「僕の話を、聞いてくれる気になった?」
苦しい息を隠して、男は死神を前にしても、優しく笑んだ。
「あー…ああ。あの話ね」
面倒臭そうに死神は目を細める。
「僕は……」
「却下だ」
言いかけた男の言葉を遮り、死神は切り捨てた。
「アンタはどうか知らないが、他の奴等は納得しないさ」
「それは、僕が……」
「一人でここに寄越された意味、わかってんだろ?」
取り付く島もなく、男は押し黙った。
「なら話し合う余地は、お互い無いってことさ」
死神は、自分の呟きだけ残して地面を蹴った。
手にした大振りの槍を、夕に突きつけた時とは段違いの速さで突き出している。
男は眉間にしわを刻んで、右手を前へと突き出す。槍の切っ先が手に触れる直前に、細かい砂のような粒が集まったかと思うと、槍が甲高い音とともに弾かれた。
死神は反動に応じて、少し後ろへと飛んだ。
男の手には、中世の騎士が持っていたようなランスが握られている。
痩身には似合わない重そうなランスを、軽々と片手に持ち、構える。
死神は何も言わずに、再び槍を構えた。
相対したのはほんの数秒で、どちらからともなく走り出して、ランスと槍がぶつかる。
槍が刺突を繰り出せば、ランスが弾いて突き返す。次いでランスは死神の足を狙って切っ先を突くが、死神はそれより早く、姿に似合わない軽業師のように助走もなく空中に飛んだ。
男は、夕が隠れている鉄骨から死神を離そうとしている。
通りすがりの夕を、逃がそうとしている。
逃げなければ。
夕は思い立って息を殺して建材置き場の裏手に足を向けた。だが、甲高い金属音とともに、激しい咳を聞きとめて、振り返る。
男が地面に膝をついている。
無理だったのだ。
あのセーターの血は、嘘じゃない。
死神が、男の取り落としたランスを拾い上げた。そのランスで男を串刺しにしようというのか。
夕は、走り出した。
鞄を捨てて、なえた足でよくここまで走れたと感心するほど、速かった。
気がつけば、男の前でかばうように腕を広げている。
「―――……なんだ、おまえか」
死神は面白くなさそうに溜息をつく。黒の深い双眸で睨まれて、夕は震える手足に力を入れる。
「……逃げて……」
背中で枯れた男の声を聞いて、夕は真っ直ぐ正面の死神を睨んだ。夕も背の低い方ではないが、死神は威圧的でさえあるほど長身だった。
「やめて。この人はもう動けないんだから」
「ガキのお遊戯じゃねぇんだよ」
長い指が夕の胸倉を掴み上げる。
「っ!」
息がつまると同時に、足から地面が消えた。死神が、片手で夕を持ち上げたのだ。
夕はもがいて死神の指をつかむが、息苦しさに夜空を見上げる。いつのまにか高く上った半月がにじんだ。晴れた闇に白い苦悶がもれる。
「――――やめろっ」
男の声が聞こえた。
次の瞬間、夕は死神に地面へと落とされた。解放されたはいいが、肩を強く打って、夕は小さく悲鳴を上げた。
それと同時だった。
鈍い。
恐ろしく鈍い音が響いた。
とっさに振り返った夕は、自分を呪った。
ランスの先から赤い滴が垂れている。飛び散った飛沫はほとんどなかった。
ただ、ランスの切っ先が、男の胸を食い破っている。
項垂れた顔から、血が流れた。
心臓が壊れたように鳴った。
声は、出なかった。
いっそ叫ぶことができれば、恐怖で我を忘れることができたのかもしれない。
だが、さきほど締め上げられたせいか、喉は渇いた声しか出なかった。
目が乾いているのに、瞬きもできず、さっきまで話をしていたはずの男が、ランスの先から捨てられるのを見つめている。
死神はすぐ目の前。
間髪入れずに夕の喉下にランスを突きつける。が、ふと思い出したように夕に目線を合わせてしゃがみこんだ。
「お前、名前は?」
今までの緊張感が台無しになるほど頓狂な質問だ。だが、いぶかりながらも怯えた夕は応えるしかなかった。
「……皐月 夕」
死神が、初めて余裕を崩して目を見開いた。
「まさか……!」
その声は霞む。
夕の胸に、白い光が食い込んだのだ。薄暗い辺りを一瞬だけ照らして、消える。
次に、夕は右の胸に焼け付くような痛みに脳天を貫かれた。
「あああああっ!」
嗚咽と苦悶が体と喉から弾きだされ、未だかつて経験したことのない痛みに、夕は胸をかきむしる。
死神が刺したのか。
いや。
死神は動いていなかった。
ではなぜ、胸を刺し貫かれたような痛みが夕に起こったのか。
「クソッ!」
死神は乱暴に夕の肩をつかむ。そして地面に押し倒した。突然、身に危険を感じて、夕は痛みに任せて手足をばたつかせるが、死神に組み敷かれる。
「落ち着け」
低く、言う。
「何もしねぇよ」
夕の痛みがひきはしなかったが、少しだけ息苦しさはなくなった。
「そうだ。そのままゆっくり息をしろ」
苦しかったのは、痛みのあまり、空気を吸い過ぎていたせいだったようだ。
死神の長い髪が、夕の周りだけカーテンのようにまとわりついている。柔らかく体に伝う感覚が、少し戻ってきていた。
痛みはある。限界まで開いた目から、涙が溢れている。だが、落ち着きだした体は少しずつ痛みの警告を和らげていった。
死神は少し息をつくと、まだ起き上がるまで力の入らない夕を抱え上げる。
律儀に夕の捨てた鞄も拾い上げると、ゆっくりと歩きだした。死神は、資材置き場から大通りには出ず、暗くて細い路地裏へ入った。
終始無言のまま、十五分ほど細い道ばかりを通って辿り着いたのは、ごくごく普通の、賃貸マンションだった。死神はエレベーターを使わず五階まで昇ると、一角の部屋の鍵を開ける。
灯りもつけずに家へあがりこんでソファの上に夕を寝かせると鞄を脇に置いた。
そして、自分はサイドテーブルの脇に座り込んで息をついた。
「―――…選べ」
暗いはずの部屋で、闇よりも暗い死神に目だけが夕を捕えた。
「その激痛と一緒に生きていくか、自殺するか」
冗談、ではない。
この死ぬほどの痛みは現実だ。
「その痛みは、これから何度も繰り返される。死ぬまでな」
死神が殺してくれれば、今すぐ死ねる。
「俺は直接手を出すことはできない。やるなら自分でやれ」
眼光がうつろう。死神は自分の懐から細いナイフを取り出すと、夕に握らせる。
「朝までに答えを出せ」
夕は辛うじて動く腕を動かして、胸に当てた。自分を殺すにも、これでは力が足りずに痛みばかりが増すだけだ。
まぶたが、冷たい手の平に落とされた。そのまま暗闇をも遮るように覆われる。
死神の手だとわかってはいたが、振り払うこともできず、夕はナイフの柄を握りしめた。