十一、カプリッチオ・イン・ブルー③ / 慰みのエチュード①
冷たい夜風がコートの裾を煽る。
黄金の季節は去り、そろそろ首許にも防寒具が必要になる時期を目前に、地を覆う落葉がカラカラと乾いた音を立てて舞っていた。
千尋の眼に外灯から火が移って仄かに燃えている。匡辰はその視線の冷ややかさに、己が彼女に今どれほどの狼狽を晒しているかを自覚させられた。
薊のような唇が開く。
――違うんやろ。本音は。
生来嘘が得意な性分ではない。だから事実を隠すには黙るしかない、まさに愚直という語が似つかわしい男だ。
死んだ貝のような沈黙は、今はただ肯定を示すばかり。
「……あんたに鳴虎を託したんは、そのクソ真面目さを買うたからや。少なくとも鳴虎を騙すことはせんからな。けど、こんなんやったら嘘の上手い奴のがマシやったわ」
言えない。
「なあおい卑怯者。さっきのクソ間抜けなツラでわかったぞ。親は関係ない、理由はあんたン中にあるってな」
「……。ああ、否定はしない……」
「そんならそのしょーもないホンマの訳、とっとと吐きさらせ! いい加減くだらん茶番から鳴虎を解放せぇよ……! このままにしとったら、あの子いつまで経っても立ち直れんやろ……ッ」
ふたたび千尋が詰め寄った。今度はどこも掴まれてなどいないのに、縊り上げられたように息ができない。
問い詰められると知っていて、ろくな言い訳を用意していなかった。こうなるのは眼に見えていたのに。
公園内で寝ていたホームレスが会話に気づき、起き上がってこちらを伺っている。事情を知らない見ず知らずの誰かの眼さえ、ひどく匡辰を咎めているように感じるのは、内心に湛えた後ろめたさで腸が傷むからだろう。
まるで悪いことをした子どもが必死でそれを隠しながら、内心では親に気づいて叱ってもらうのを待っているような幼稚な自己矛盾。許してはもらえないかというあさましい期待の裏返し。
それも、……もし鳴虎に拒絶されたら本当に立つ瀬がなくなるという身勝手な理由で、千尋が来るのを待っていたのかもしれない。
「……最低な人間なんだ」
木枯らしのような声で呟く。
もしかすると千尋は、匡辰のそうした愚かさをとっくに見抜いていて、あえて仲介役を買って出たのかもしれない。……それはいくらなんでも都合のよい妄想だろうか。
*♪*
蛍の気持ちなど無視して日々が過ぎていく。特別訓練を始めてから、もう二週間が経っていた。
だいぶ慣れてきて、訓練室と機械室を隔てるガラス窓を物理的に震わせるくらいは朝飯前だ。
検知機器はよほど非常識な数字を並べているらしい。と、わざわざ画面を見せてもらわなくても、ボイストレーナーやエンジニアたちの表情でわかる。
毎回楽しそうなのは御手洗さんぐらいなもので、技研の人たちは態度にこそ出さないものの内心どう思っていることやら。
……きっと怖がられているんだろうな、と思うのはやるせないけれど、自分で決めた道だ。
温井さんに至っては、何度か尉次に直接提言している。例によって蛍は隣の部屋にいて盗み聞きしてしまった。
ここの研究棟は音響関連の設備が集まっているため、ほとんどの部屋が防音仕様になっているのだが、どうやら反音念の集音鞭毛は扉の隙間から物理的に侵入するので意味がないようだ。
『彼女の成長速度はすでに当初の想定を超えています。……所長、やはり制御機構を設けるべきかと。今のままでは危険すぎます』
『提案は具体的にしてくれ。すでに実験装置の外に出てしまった反音念をどうやって制御する? それも今は人体に完全に定着しているんだ。SF映画なら小型爆弾でも埋め込む場面だけど、一応うちの娘なんだからそれは止してくれよ』
『……実はすでにチームに案を募っていますが、今のところ採用できる発案はありません。時間をいただかなければ。その間、開発を止めるわけにはいきませんか』
『ダメだよ。同じものは二度と作れないんだ、私はやれるところまでやる。それに技研には騒念を生んでしまった責任もある。他に対抗策はない。悪いけど温井くん、開発主任の席にいる間は付き合ってもらうよ』
とまあ、こんな感じ。
しかし直接会うと温井さんは一切そんなふうに思っている素振りは見せない。丸っこい頬にうっすらと柔和な笑みを浮かべ、最初に反音念チームとして会った日から、何ひとつ変わらない態度で接してくれる。
だから蛍も聞いてしまったことは言わないで、何も知らない顔でいる。
……尉次に対してもそうだ。彼と磯彦の会話を聞いてしまったことは胸に仕舞った。
彼らの顔を見るだけで嫌悪感が込み上げるけれど、精一杯なんでもないふうを装って、なるべくそのこと自体を考えないようにしている。
ひたすら修行に打ち込んだ。一刻も早く強くなって、心置きなくここを去るために。
これきりもう二度と彼らの世話にはならないと誓って。
「や」
「あれ、エビさん。珍しいですね」
「メール報告だけじゃ味気ないんでね。……というのは建前で、毎日のように御手洗くんの話を聞いてたら僕も見たくなってさ、彼女が訓練してるとこ」
「はは。ちなみに名前出しNGなので、ここではもっぱら『生徒さん』ですよ」
「ああうん、温井さんに聞いたよ。それだと僕は『患者さん』って呼ぶのが妥当かな」
とかいう会話が聞こえてきたので振り返ると、ガラスの向こう、釜寺さんの隣に蛯沢さんがいた。蛍がそちらを見たのに気づいてひらひら手を振っている。
支部ではいつも白衣姿だが、今日は普通の綿シャツにチノパンという出で立ちだ。聴診器がなければお医者さんには見えないなと思いながら訓練室を出る。
「お、それが例のチョーカーか。着けてて負担を感じたりはしてない?」
「ハイ。軽イシ、肌触リモ良イデス」
「……おお、そういう感じなんだ。ごめんなんか感動しちゃったよ」
御手洗さんとはまた違う路線で、蛯沢さんも人あたりが柔らかい。最近やさぐれたくなるような事態が続いているので少しホッとする。
といっても釜寺さんが苦手なわけではないが、彼は二人に比べて真面目というか少し堅い雰囲気で、雑談もあまりしない人だ。それに温井さんと同じくらい考えていることを態度に出さないので、もしかしたら彼と同じく蛍を警戒しているかもしれない。
ひとまず訓練は一旦中断して、別室で蛯沢さんの診察を受けることになった。
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