八、破鏡のプレリュード
食事のあと、蛍はもやもやした気持ちを堪えて早めに部屋に戻った。
美味しかったのに、途中から食事の味もよくわからなかった。妙な言動を聴きすぎたから。
そう、残念ながら尉次が説明したとおりの驚異的な集音能力は、あらゆる胡乱な声を少女にぶちまけてしまっていたのだ。
――妹なのによそよそしくない?
――……それ絶対に本人の前では言わないでくださいよ。
――留理子……。
何かおかしい。
この身体の本来の主であるつぐみは、尉次と留理子の娘だったと聞いている。そしてワカシは磯彦、つまり尉次の兄の一人息子だから、二人の関係は従兄妹のはずだ。
妹同然に思うほど仲が良かった……というならわからなくもないが、たしか聞いた話では、ワカシは生前のつぐみとは一度も会ったことがない。
それに磯彦の表情は、『十年以上前に亡くなった弟の妻』に対するそれではない気がする。なぜそう感じたのかは自分でもわからないけれど。
(……どういうこと?)
『――どういうつもりだ?』
疑念に答えるように、また聞きたくもない声が、どこからともなく蛍の脳に届く。
『何が?』
『わざとだろ。あの娘に留理子の恰好をさせて、俺に対する当てつけのつもりなら止せ』
『……ん? ああもしかして蛍さんの話? ははは、それは誤解だって』
屋敷内には他の音だっていくらでもある。使用人さんたちが掃除や片づけのためにせっせと働いているのだから、わざわざ兄弟の話を盗み聞きする必要はない。
そう思うのになぜか平和な雑音は蛍から遠ざかっていった。きっと尉次の言う鞭毛とやらが、無意識のうちに特定の場所へと集中しているからだ――つまり蛍自身が関心を抱いているせいなのだ。
聞かないほうがいい、きっと嫌な思いをする。
そう直感して思わず耳を塞いだけれど無意味だった。蛍の脳に音を届けているのは見えない鞭毛とやらであって、耳殻ではないのだから。
『言っておくが、俺も悪かったと思ってたんだ。自分の女に手を出されて平気な男は普通は居らんからな』
喉がひゅっと鳴った、
『前にも言ったけど僕の“普通”には兄さんの行動も含まれるんだよ。アルカリ化合液が必ずリトマス紙を青く染めるのと同じ。極めて再現性が高い、ごく普遍的な自然現象だ。
それに僕の見解としては、留理子は僕の子どもは産まない。だから他の男の種でしか後継者は誕生しえない。兄さんが提供者になってくれて、正直ちょうどよかったと思ったくらいだ』
『……はあ、そうか。まあおまえはそういう奴だったな。昔から』
心臓が嫌な脈を打って、呼吸のし方が急にわからなくなる。
『そんなだから、いつも女が俺に泣きついてくるんだ、おまえが何を考えてるのかわからないってな。無理もない。俺だって五十年一緒にいてもまったくわからん』
『はは、同じことを留理子もよく言ってた。――ところでさ、やっぱり蛍さんって彼女によく似てるよね』
『そうか? 俺はどちらかというと服とネックレスにぎょっとした。ちょうど髪も同じような感じだし、しかもおまえの隣に座ってたから余計な。少なくとも今日までは何も思わなかったぞ』
『えー。似てると思うんだけど』
……。
信じられない会話だった。内容もだが、兄も弟も普段と変わらない口調で平然と話しているのが一番気持ちが悪かった。
思わず留理子のワンピースを脱いで放り棄てる。手が震えて止まらず、端末のロック解除さえままならなくて、蛍は声のない呻き声を発しながらベッドに倒れ込む。吐きそうだった。
つぐみの父親は磯彦だった、つまり留理子という女性は尉次の恋人でありながら、彼の兄と浮気をして子どもまで産んだのだ。それを尉次もなんとも思っていない。
しかも――妹、すなわち腹違いの兄妹だという会話からして、ワカシも事実を知っていることになる。……ああ、そうか、DNA鑑定をしたとか言っていた。
なのに蛍には言わなかった。嘘を吐いていた。
気を遣って言えなかったことくらい、わからないわけじゃない。でも、頭で多少理解できたって、気持ちが追い付いてこなかった。
そもそもその鑑定だって、蛍には許可も了承もとらずに勝手にやったんじゃないか。
(……お金持ちってみんなそうなの? 信じられない)
思わずドアを見た。この家から逃げ出したかった。
今すぐ薫衣荘に帰って、そして、時雨と鳴虎に会いたい。
涙がふりかかる手でなんとか端末を開き直し、トークアプリを叩く。すると先んじてアイコン上に通知マークが出ていた。
……時雨からだ。
縋りつくようにタップする。画面が歪んで見えないので、何度も眼を擦ってしまった。
『豪邸のメシに慣れても
ちゃんと帰ってくんだろーな?』
「……ッ、……! ……!」
泣きじゃくりながら返信を打つ。
『当たり前でしょ むしろ早く帰りたいよ』
送信ボタンを押すと同時に絶望した。この返信を以て、今はまだ帰らないという宣言をしたことになったのだと気付いたからだ。
ハナビを倒すだけの力を得るために寮を出たのだから。目的を果たすには、たとえどれほど不愉快だろうと照廈尉次を頼るしかない。
そのあと、お風呂の用意ができたと呼びに来たメイドさんたちをなんとかやり過ごしたものの、浴槽の中でも涙が止まらなかった。
誰にも聞こえないのに、今の蛍は声を押し殺さなければならない。けれども結局は抑えきれなくて、洗面所の鏡にヒビが入ってしまい、ますます泣いてしまった。
幸か不幸か、駆けつけてくれた本俵さんは罪悪感とパニックによる涙だと思ってくれたようだけれど。
混乱しているのは確かだ。
何をどう受け止めていいのかわからない。……そもそも自分自身の正体を含めて、蛍をとりまく現実は非常識でめちゃくちゃなことが多すぎる。
今までなんとか平静を保っていたのはきっと、ハナビを倒すという目標だけを見つめて、それ以外から目を逸らしていたからだろう。
考えなければ悩んでいないのと同じでいられる。
けれど――逆にそれらが頭を占めて、他のことを追い出してしまったら。
ベッドに潜り込んでも眠れそうにない。すがるように端末を掴み、時雨とのトーク画面を開けば、闇の中に明かりが灯る。
飾らない文面に照れを隠した彼の言葉が、今の蛍には優しすぎて眩暈がしそうだった。
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