七、混沌の予兆《オーヴァーチュア》
幻影はアコースティックギターを抱く。ほろほろと崩れては戻る不安定な輪郭さえ愛おしむように、骨ばった指は幾度もその弦を愛撫して、この世のものならぬ悲喜の音を奏でていた。
彼の愛好する音楽はしばしば反骨精神と親和する。ならば本来、鎖に繋がれることを好しとはしない。
いや、あるいは、だからこそ。失意の亡霊は歌にこそ抵抗を込めるのかもしれない。
「――♪ 仕込みは上々、前戯は終いだ。本番も頼むぜ。……悪くねえ音だった」
冗談めかしてネックにキスする素振りをしたら、ギターは恥じらうように震えた。
*♪*
待機命令が解除されたので、やむなくワカシは照廈邸に戻った。隊服をジャケットに変えて髪を下ろし、サングラスを外して食堂に降りると、すでに着席していた尉次が「やあ、おかえり」と呑気な声を出す。
「あれ、お父さんが遅いのはともかく叔父さん一人ですか? 清川さんは」
「着替えてるんだと思うよ。ていうかまだ苗字で呼んでるの? 妹なのによそよそしくない?」
「……それ絶対に本人の前では言わないでくださいよ」
憮然として言うワカシに、尉次は笑みを薄めたような微妙な表情を返した。
そうこうしているうちに蛍が顔を出す。なるほど叔父の言うとおり、昼間見たラフな服装ではなく、上品なワンピース姿になっていた。
推察するにハイブランドのそれは、恐らく彼女の私服ではない。一見今季の流行を取り入れつつも、微妙に中心から外れたデザインは、十代の女の子にはいささか大人っぽすぎるように思う。
しかも胸元のペンダントトップは見るからに安物だ。どういう意図の装いなのか測りかね、ワカシは思わず彼女を注視した。
「……コンバンハ」
「あ、失礼しました、こんばんは」
蛍がちょっと気後れしているふうなのは、借り物の服のせいか、変換器越しの声に不慣れなためか。もしかしたらワカシの臨席を聞いていなかったのかもしれない。
彼女はちょっと落ち着かなさげな表情のまま、尉次の隣に座った。そのあと本俵が現れて言うには、磯彦は少し遅れるそうなので、三人で先に食べ始めてほしいとのこと。
さっそく温かいスープと前菜が運ばれる。
表面にクリームを垂らした淡い緑色の水面に、アスパラガスとホタテのポタージュだ、とワカシは目を細めた。幼いころからの己の好物を、敢えて今日のメニューに選んでくれたらしい。
恐らく本俵の提案だろう。
さて、照廈家お抱えシェフの手腕にはなんら不満はないが、問題は面子であった。ワカシと蛍と尉次では和やかな雑談など望むべくもない。
それもこちらは直前に肝を冷やすようなことを言われたので尚更だ。正直気まずかった。
しかし叔父だけは楽しげで、あれこれ自分の研究やら蛍の今後の訓練の話やらを取り留めもなく話してくるので、若者サイドはそれに適当に相槌を打つ。
ワカシは尉次が失言しないか内心はらはらしたが、蛍は思ったより真剣に彼の話を聞いているふうだ。ひとまず彼女の居心地が悪そうでないのには少し安堵する。
今まで蛍とは筆談以外でコミュニケーションの手段がなく、ひいては彼女の考えていることが汲み取りにくいと感じていたけれど、チョーカーのおかげで直接会話ができるようになったのもありがたかった。その点についてだけは叔父を評価してもいいかもしれない。
そして、ふと思った。本俵が来てほしいと言った本当の理由はこれじゃないかと。
ワカシがこの家に住んでいたころ、親子三人が揃って夕食を取ることはほとんどなかった。たいてい父か母のどちらかは不在だったし、いてもひっきりなしに鳴る携帯電話やノートPCを手放せないので、息子と会話を楽しむ余裕などなさそうだった。
テーブルに一人きりの日も少なくなかった。ひどいときは誕生日やクリスマスのような、子どもにとっては特別な夜でさえ。
「……まあそういう具合で、そのプロジェクトはお蔵入り。でも開発した素材はいくらでも転用が利くから全くの無駄ってわけじゃないよ。そのチョーカーも」
「コレ?」
「そう、それ変換器としては蛍さん専用だけど、もともとRVCデバイスとして提案されたやつの型を流用したんだ」
「RVCって他人の声を模倣する技術ですよね? 権利周りとか危なくないんですか」
「ハハ、心配ないよ。ホビー・トイ部門のだからそんなに高精度にはしないし、安全対策も組み込むから。
それより蛍さん、使用感とかデザインあたりに意見くれない? 女子高生の視線で」
「ンー。着ケ心地ハ悪クナイけド、チョット地味ダなッテ思イマス。無地ダシ色モ暗イシ」
「うんうんいいね。明日さっそく担当者に――」
大半は尉次とはいえ、人の声で満ちた食卓。
子どものころ憧れていたもの。
ワカシがひっそりとこの稀有な時間を噛み締めていると、急に蛍がぱっとそっぽを向き、叔父も言葉を途切れさせた。
「ああ、兄さん帰ってきたんだ?」
「ダト思ウ……」
「……ボクには全然聞こえませんけど、清川さんの聴力が高いのって、やっぱりその……?」
「ああ。うん、反音念の機能の一つだよ。聴力というか正確には集音能力だね。原理としては、視認不可能な極めて細い霊体の鞭毛を周囲に展開して、わずかな大気の振動を検知してるんだ」
あまりにも人間味のない説明がなされ、ワカシはもちろん蛍自身もちょっと青ざめる。少女の身体に収まっているが、あくまで彼女の中身は人ならざるものだ、と突きつけられたようで。
尉次はそんな二人に構わず、普通に食事を続ける。
急に言葉が途絶え、なんともいえなくなった空気を、良くも悪くも新たな入室者がかき混ぜた。
開かれた扉の向こう。上着を本俵に預けつつ、まずワカシの姿を確認してフンと鼻を鳴らした磯彦は、次に尉次と蛍を見て顔を強張らせる。
……より厳密には後者に。
声こそ出さなかったものの、父の口がかすかに動いたのを見逃さなかった。
――るりこ。
たしかに父は、そう口走った。
ちぐはぐな衣装の意味がようやくわかって、ワカシはじっと叔父を見つめる。
ある意味彼は父以上の異常者だと思う。先の反音念の説明もしかり、彼はあくまで蛍を「姪の亡骸に宿った自作の人工生命体」と認識して、その上で死んだ妻の遺品を着せているのだ。
……何のために?
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