五、蛍石の思い出②
撮影地はどこかの温泉街らしい。背景はどう見ても土産物屋の軒先だし、店の内外にはそれらしい浴衣姿の人々が複数映り込んでいる。
中央に佇む一組の男女はともに洋服だけれど。
写真の中の尉次は今よりずっと若い。二十代後半くらいだろうか、今と変わらない邪気のない笑顔を浮かべ、恋人の肩を抱いている。
その留理子はどことなく蛍と似た、けれど幾分気の弱そうな顔立ちをしていた。胸の下ほどまである長い黒髪で、クローゼットにあったのと同じワンピースを着て、少し恥ずかしそうに尉次に身を委ねている。
何より蛍の目を引いたのは、留理子の胸元に光る一粒の雫。
蛍は思わず自分の首に手をやって、服の中にある鎖をたぐり寄せる。
引っ張り出してすぐに確信した。青緑と紫が涼しげなグラデーションを描く、涙の形をした蛍石は、ペンダントトップの金具の形まで完全に同じだ。
「それ、……そうか、君が持ってたんだ。ちょうどこの写真を撮ったときに買ったんだよ」
ぎい、と椅子を軋ませて、尉次は懐かしそうに眼を瞬かせた。それからぽつぽつ語った。
――結婚する前だから、二十年くらい前かな。留理子を連れて出張したんだ。
目的は下請けの工場なんだけど、近くに温泉があって宿もそこの旅館だから、せっかくだし少し観光しようかって誘ってさ。
留理子はそもそも外出自体が苦手だから、連れ出すのにはいつも苦労したよ。私としては彼女に適度な刺激を与えて恐鳴値の変動を計測したい……っていうと、ひどい話だと思われそうだけど。
それが私なりの彼女との向き合い方だった。科学というのは任意の条件下で試験を繰り返し、結果を積み重ねて一貫した法則を見出す作業だからね。
もともと彼女は恋人である前に被験者でもあったし。何より特異発叫体質は今も当時も不明点が多すぎて、良し悪しを問わずとにかく情報を集めてみないことには、彼女にとって最良の選択が何なのかもわからないんだよ。
なんとか説得して二人で温泉街を散策してたら、留理子が天然石の店で脚を止めた。ああいう場所ってどうしてやたら無関係な石を売るんだろうね? 明らかに日本産でないものまで雑多に置いてるよね。
ともかく、彼女が珍しく興味深そうにしてたから、無性に買ってあげたくなってさ。何しろ普段は宝石とか絶対に欲しがらない人だったから。
『これは? 瑠璃ってラピスラズリのことだし、留理子にぴったりだ』
『字が違うでしょ』
留理子はなかなか石を選ぼうとしなかった。
そもそも彼女がプレゼントを避けるのは『ダメにしてしまうから』だ。感情が高ぶるとすごい勢いで音念を出すから、つまり身体の周りで大気中の微粒子が高速で乱流を……まあ、言ってしまえば非常にミクロなスケールかつ高圧力で砂嵐を起こすようなものだからね。
布類なら汚す程度で済むけど、貴金属や機械類は復元できないほどのダメージを与えることもあるから、携帯電話も持たないくらいだった。今なら防塵加工である程度は対処できるだろうけど、二十年前の技術力では厳しい。
『フローライトならどう? もし壊れちゃったら、そのまま燃焼させて発光現象を観察できるよ』
『……石が光るの?』
『うん。だから和名は“蛍石”。なるべく粉々に砕かないと観察しやすくならないんだけどね……逆に言えば、壊れても別の楽しみが残るんだ。それなら悲しくないだろ?』
『そうなの。……いえ、そういう問題じゃないけど。でも、これも綺麗ね、いろんな色があって……』
そんなような会話をして、ようやく留理子が『涙なら自分に合うから』ってそれを選んだ。鎖は……プラチナだったかな、後で別のに替えたけどね、結婚指輪を買わない代わりにって。
とにかく気に入ってくれたみたいだよ。いつになく機嫌が良かったから、こうして写真を残せたってわけさ。
『尉次さんて本当、なんでも思い通りにしちゃうんだから……』
『うん? 物理法則を無視した現象は起こせないよ』
『もう。そういう意味じゃない』
……。
楽しかったなぁ。あの頃は。
今がつまらないわけじゃあないけど、留理子とあれこれ実験をするのが一番面白かった。
私はさ、ワカシや兄さんが思ってるより、彼女を大事にしてたんだよ。だから結婚したんだし。
留理子もそれはわかってくれてたと思う。
……あ、いや、うん、ごめんごめん。君にそんなこと言っても仕方がないよね。
ともかくそのペンダントは留理子のものだった。彼女が亡くなったあとは形見としてつぐみが持ってたから、あの子が死んだときに一緒に無くなったかと思ってたよ。
あの川底の泥の中にでも埋まってるとばかり……。
「ソレナラ、コレ……」
ペンダントを外した蛍を、尉次はやんわりと制止した。
「君がそのまま持ってて。私はたしかに君をつぐみとは別人として扱うと言ったけど、間違いなく彼女の娘だとも思ってるから。それを相続する権利がある」
「……アリガトウゴざイマス。私、……コレカラ、名前ヲ付ケてモラッタノデ」
「……、ああ! 蛍石だから? へえ」
言われるまま付け直す。もう一度服の中に入れようとしたら、外に出しておいてほしいと請われた。
ペンダントを見つめる尉次の眼差しは温かく、心底懐かしんでいるのが伝わってきたので、蛍もとりあえず従った。それにペンダントを服の中に入れているのは任務中に壊さないためだから、たしかに今はその配慮は必要ない。
けれども。
(……なんだろ?)
何かがひっかかったような気がして、思わず尉次の顔を見つめ直した。生物学上はこの身体の父親にあたる人を。
彼はにこにこしながら「そうだ。今日の夕食でさ、留理子の服を着てくれない?」とこともなげに言った。
「気に入ったのがあれば貰ってくれ。きっと彼女も喜ぶよ」
→