四、蛍石の思い出①
鳴虎たちとともに去ろうとするワカシの肩を、
「坊ちゃま」
老人の声が遠慮がちに叩いた。振り返った先の執事は、閉じかけている食堂の扉の前に、まるでその影に呑まれそうな面持ちで立ち尽くしている。
先日帰ったときにも思ったのだが、本俵はここ数年で老けたようだ。年単位で家を離れているから余計にそう感じるのかもしれない。
「失礼を承知でお伺いします。……もう、この家にお戻りになってはくださらないのでしょうか」
「……うん。そのつもり」
ワカシが静かに答えると、老人は高い背を縮こまらせて返した。
「旦那様……磯彦様は、寂しがっておられます。態度にはお出しにならないだけで……それも、奥様のことを引け目に思っていらっしゃるからこそ」
「藻助さん」
一歩だけ歩み寄る。本俵はワカシが生まれる前から父と照廈家に仕えてきた男で、仕事一辺倒の両親よりも、よほど幼い御曹司の養育に貢献してきた人物だった。
親代わりともいえる彼を、ワカシは下の名前で呼んでいる。
「板挟みにしてごめんね。……ボクもそれくらい解ってます。でも、だからこそお父さんを許すわけにはいかない」
「はい……申し訳ございません。それでも、差し出がましいついでにもう一つだけ……今晩、ご夕食にいらしてくださいませんか。今月ご兄弟がお揃いになるのは、予定の上では本日しかありませんので」
「……わかったよ。待機命令が解除されたらね。また連絡します」
深々と頭を下げる本俵に送られ、ワカシは慣れ親しんだ生家を出た。
思い出深いからこそ長居したくないのだ。懐かしさに絡め取られて、かつての決意を鈍らせてしまってはいけない。
この家に住んでいたころ、母を失う前のワカシは、世間知らずの『お坊ちゃま』だった。照廈一族が富とともに積み上げてきた罪業も、母に対する父の裏切りの数々も知らず、不在がちな両親への寂しさを抱えながら、無機質な数字のやりとりばかりを教わっていた、父の人形だった。
あんな日々に戻るわけにはいかない。
もともとすぐ帰るつもりで玄関前に停めていた車に戻ると、鳴虎が意味深にじっと見つめてきた。
「何ですか?」
「ううん、別に。……それより通報、納北区らしいから、直でそっちに送って」
「了解です」
頷いて乗り込む。立ち止まっている暇は、誰にもなかった。
*♪*
鳴虎たちが行ってしまったので蛍も自主練に戻った。
照廈邸にも尉次が持ち込んだ機材が多少あり、技研のデータも一部参照できる。発音の練習をしつつ、今日までの訓練結果を見返していたところ、ばたばたと忙しない足音が廊下の奥から響いてきた。
靴音から判断して尉次だ。そして数分後、だいぶ見慣れたおじさんが顔を出した。
「ただいま蛍さん! ワカシと萩森さんは? 今日来るって言ってたよね?」
「通報ガアッタノデ行ッチャイマシた」
「えー、そりゃタイミング悪かったなあ。なんだかんだで萩森さんにはまだ直接会えてないから、今日こそはと思ってたのに……ていうかそれじゃ無駄足だ。――ねえ、夜までの予定どうなってたっけ?」
「会議二件をキャンセルしたので完全に空いています。戻りますか?」
「いや、やめよう。せっかくだから。温井くん、悪いけど戻って君と林くんで例の件進めといてくれ。蛍さんもさ、今から御手洗くんたち呼ぶのもなんだし、今日はうちでやろう」
ボスが言うなら従うしかない温井さんと、同じく言われるがままになるしかない蛍は、一も二もなく頷く。
前から思っていたが、照廈尉次という人はあまり威厳のある話し方をしない。でありながら有無を言わせない。
しかしそれは社長や研究所長という肩書きの力というより、彼自身が放っている独特の圧があるからだ。
物腰に反して意思は柔軟ではないというか。相手が自分の意に従うことを信じて疑っていない、頷くのが当然である、という自負が雰囲気に滲み出ている。
温井さんを見送って、蛍は尉次に向き直る。しかしこの家には技研のような防音設備が整っているわけではなく、あまり室内で大声を出すのは憚られるため、尉次がいたところで発音練習しかできそうにないのだが。
何しろ声量も鍛えてしまったので、チョーカーを外せばいいというわけではないだろう。
「さて蛍さん、お喋りしようか」
「ハイ?」
「ここで叫ばれるわけにはいかないからね。それに実際、滑らかに話すのが目標なんだから、一語ずつ発音練習するのは合理的じゃないよ」
「アア……ソレハソウカモ」
「まあ半分は建前だけどね。せっかくだから君との友好を深めようと思って」
とのこと。
頷いたものの、蛍の側には別に話したいこともそうないような……と思って何となしに室内を眺め、ふと壁に飾られた額縁が目に入る。
普通そういうものに入れるのは絵画や賞状だが、そこに飾られているのは誰かの検査結果と思われるグラフや数値の表だ。しかもそれが複数。前から変だなとは思っていたので「アレ、ナンデ飾ッテルンでスカ?」と口を衝いて出た。
尉次はにっこり微笑んで「あれは留理子の恐鳴値の記録。隣のはつぐみ」と答えた。
表情と内容がかみ合っていない。そう感じる蛍のほうがおかしいのかと思うくらい、彼は嬉しそうに続ける。
「変だなって思ってるね、ふふ。あの子たちくらい重度の特異発叫者だと、写真を撮っても音念まみれになることも多くて、留理子はカメラが嫌いだったよ」
「エー……デモ、ソレデ検査結果……?」
「それは私の趣味かな。……だって、もう二人の記録は測れないからね。私にとってはそれが彼女たちの思い出なんだ」
そういうものなんだろうか。正直、蛍にはよくわからない世界である。
写真はまったくないんですか、と尋ねると、資料写真なら少しはあるよ、とのこと。プライベートではほとんど撮らなかったそう。
けれども、そのあと尉次がタブレットに表示してみせたのは、どう見ても屋外で撮られたスナップ写真だった。
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