四、灰神楽《フラッシュバック》
白髪の少女は一瞬ぽかんとしてからかぶりを振った。
「つぐみじゃない。……つぐみのわけがない。だって、あの子は私が殺したもの……って、ことは、まさか」
ふいに彼女の纏う気配が、強烈な『拒絶』の色に転じる。黄金の瞳を、眦が裂けそうなほど見開いてじっとこちらを睨みつけ、飛びかかる寸前の獣のように身を屈めた。
唖然としていた蛍もそれにはっとして、祓念刀を抜いて身構える。
――チチチ、とかすかな震動が音念のそれに混じった。
祓念刀は刃の形をしているが、分類するなら楽器に近い。いわば機械制御された音叉であり、自動的に目前の音念の波形を計測して、逆相位の音波を発する仕組みになっている。
だが、こんな音は変だ。
少女もそれに気が付いたのか、急に気の抜けた表情になった。
「……なーにそれ。私がわからないの?」
「……?」
「あぁそっか、覚えてないんだ。なーんだぁ……良かった! じゃあ、今なら安全に殺せるかも」
「……!?」
何?
この少女の形をしたものは何者で、さっきから何を言っているのだろう?
『つぐみ、って、誰……』
呟く蛍を無視して、少女は音念を手繰り寄せると、ひと口でそれを啜る。
ずるるる、とおぞましい音を立てながら。スープでも飲むみたいに。
黒い靄状だったそれは一瞬どこかの誰かの――さきほど避難させた要救助者の中に、似たような人がいたような気がする――姿を為して、苦悶の表情を浮かべたのが見えた。
『……ッな』
「死んだ人間のことなんて思い出さなくていいのよ。あなた、今から消えるんだから」
にたぁ。
酷薄な笑みを浮かべて宣うと、少女はゆらりと舞い上がり、蛍に飛びかかった。
*♪*
葬憶隊中部支部、訓練場。脇にある休憩室。
備え付けのウォーターサーバーの水をがぶ飲みして、時雨はふぅっと息をついた。
首にかけたタオルはすでに半分も色が変わっている。学校を終えてすぐここに来て、今までずっと素振りしていたのだ。
そろそろ夕飯だが、もう少し休んでから帰りたい。ベンチに身体を転がしてぼんやりそう思っていると、足許で小うるさい開閉音がして「あぁ、いたいた!」と聞き慣れた保護者の声が続いた。
「ってあれ、あんた一人? 蛍は?」
「学校の女子連中とクレープ食いに行くって。つーか、もう帰ってんじゃねぇの」
うだうだしながら身を起こすと、仁王立ちしている鳴虎と目が合う。
「わかんないのよ、連絡つかなくて。ねぇ……もしかしてそのクレープ屋、駅の方にあったりする?」
「まさしく駅前。……まさか通報あった?」
「ハァ、そのとお――ってちょい待ち!」
跳ね起きて飛び出そうとした時雨の首根っこを、鳴虎はすかさず掴んで引き止めた。制服の襟が喉に食い込み、時雨は呻きながら「離せよ」と訴えるも、姉分は静かに首を振る。
「もう椿吹班が出てるから、あんたは行かなくてよろしい」
「でも蛍が巻き込まれてるかもしんねぇじゃん!」
「……その可能性は低くはなさそうね。でも、そうなったとしてもちゃんと対処できるでしょ」
「っ……いや、そーゆー問題じゃ……」
時雨の脳裏に先の任務が蘇った。
通報内容は普段の任務と同じ。だから人命救助のためだからと軽率な別行動をとった。
音念が複数体いると知っていたら、そんなことはしなかったのに。奴らがその場で共食いをして強くなることを予測できたら、絶対に蛍を一人にはしなかった。
もしかしたら、と思わずにいられない。あの日、時雨が追いつくのがもう少し遅かったら、最悪の事態になっていたかもしれないと。
そうなったら自分のせいだ。
時雨が、あの子をこちらに引き込んだから、
「――時雨、動くな」
刹那、ビィン、と祓念刀が唸った。唖然とする時雨のすぐ横に、白刃が振り下ろされていた。
いつの間にかそこに燻っていた黒い靄が、形を失って霧散していく。
鳴虎はそれが完全に消えたのを確認して、ふっと息を吐きながら刃を収めた。
「ったく……葬憶隊員が発声源になってどうすんの。落ち着きなさい」
「……べ……、別にこんなん、大したことじゃなくね? 今日び誰だって音念くらい出すし。それよか蛍、あいつがまた前みたいなヤバいのに当たってたらどうすんだよ。そんで、もし……椿吹さんたちが間に合わんかったら」
「あのねぇ、そんな『もし』なんて言い出したらキリないでしょ。だいたい蛍だって、葬憶隊に入るって決めた時点でわかってるんだから、あたしらの任務が命懸けだってことくらい」
「だッ……でも、……オレ……オレは……、オレだってわかってるよ!」
「本当に?」
喚く時雨に対して鳴虎はひどく冷静で、その温度差がどうにも惨めでならなくて、余計に焦りが募るようだった。
おまえは無力な子どもだと言われているような気がした。実際そうかもしれない。
どんなに鍛えても、何体の音念を斬っても、強くなれた気がしないのだ。だからふとした瞬間、足許から黒い亡霊が立ち上る。
思いつめて霞んだ視界にドアの影が見えた気がした。濃い緑色をした幻が。
その向こうで誰かが叫んでいるのが今でも耳の底にこびり付いている。この音だけはどうやっても斬ることができなくて、だから永遠に消えることなく、時雨の弱さを嘲笑っている――……。
反論する気力もなくして悄然とする少年を、班長は激励するように肩を叩いた。
「あんたは蛍の相棒なんだから、あの子を信じなさいよ。……あたしも、一応、元相棒として椿吹を信じてるの。もし蛍がピンチでも彼がなんとかする、って」
「……蛍を、信じてねぇわけじゃ、ねえと思う。ん、だけどオレ……」
「うん、怖いのはわかる。それは仕方がない。人間なんだもの。
だから、それを自分一人で抱え込まないで、蛍が帰ってきたら話し合いなさいね」
簡単なことのように言わないでほしい。これまで蛍に対してさんざん保護者ぶってきたのに、今さらこんな情けない顔をどうして向けられる。
……でも、わかってもいるのだ。たぶん鳴虎の言うことが正しいのだと。
ちっぽけなプライドで、誰かを守ったりなんてできないから。
頷くしかなかった。一緒に時雨の中の何かも、折れたような気がした。
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