一、照廈邸へようこそ
やってきました照廈邸。
横に長いな、というのが蛍の第一印象だ。駅前のビルやタワーマンションなどとは違い、見た感じ二階建ての――三階か屋根裏部屋と思しき部分もある――扁平な建物で、土地を贅沢に広く使っている。
それでいて坂の上に立地しているから、視覚的には縦にも大きく感じられる。
まず目に入るのは大きな門。欧風のクラシカルなデザインに反し機械式で、インターフォン越しに開けてもらい、車ごとその中へ入っていく。
玄関までは遠く、通路の両側はちょっとした公園級の庭である。植え込みは手入れが行き届いており、花の少ない晩秋でも彩りがよくて、寂しい感じはしない。
しかも花壇に囲まれた噴水まであって、駅前のロータリーのようにぐるりと整備されていた。Uターンすれば門へ戻り、左折した先はここからでは見えないが車庫だろうか。
今日からここに一ヶ月住むと思うと不思議だ。家というよりホテルに近い。
応対してくれたのはいかにも執事という感じの服を着た、老眼鏡の似合う白髪のお爺さんだった。ここまでの運転手を務めてくれた温井さんとも顔見知りらしい。
「初めまして……で、よろしいでしょうか。私は本邸で使用人頭を務めさせていただいております、執事の本俵と申します」
「……」
出だしの妙な言い回しはたぶん、つぐみを知っているのだろう。つまり十年以上ここに勤めているわけだ。
すでに蛍の声についても伝わっているらしく、実質口パクの『よろしくお願いします』にも執事さんは動じず、柔らかな笑顔を返された。
「私は研究所で準備がありますので、この先は本俵さんにお任せします」
「かしこまりました。
――では蛍様、お部屋にご案内いたします」
というわけで本俵さんと二人になる……ということもなく、いつの間にか左右を女中さんに挟まれており、ごく自然に荷物や上着を預かってもらっていた。
やたら履き心地のいいスリッパは足音も少なく、廊下に敷き詰められた毛足の長い豪奢な絨毯の上をぽふぽふ歩いて連れられた先は、二階の端近く。
見晴らしのいい部屋だった。バルコニーに続く大きなフランス窓からは庭が一望でき、視線を上に向ければ坂の彼方で銀にきらめく市街の海が、きっと夜にはネオンの波飛沫を散らすことだろう。
調度品は淡い木目で統一されており、掃除したてで埃ひとつない。うっすらストライプ柄の入った、淡いピンクベージュのベッドカバーは見るからに新品で、もしかしなくても蛍を招くために用意されたものか。
整いすぎた環境にますます非日常感を覚えながらあちこち見て回る。すると何の気なしに開けたクローゼットに、何着も女性ものの衣装が掛かっていた。
これはたぶん新品ではないし、そもそも用意されるいわれもない。小首をかしげる蛍に本俵さんが静かな口調で説明する。
「尉次様の亡き奥様、留理子様のご遺品です」
つまり十数年前の代物か。
保存状態はかなり良いがデザインがやや古い。レトロブームで再流行しているスタイルではあるものの、やっぱり時代が違えは多少ニュアンスが異なるのだろう。
「ここは留理子様がお泊まりになっていたお部屋なのです。尉次様のご要望で、ぜひ蛍様にお使いいただきたいと……リネン類は新品に取り替えておりますが、調度品はそのままです。衣装はすべてクリーニング済ですので、ご自由にお召しください。サイズ等調整の必要があればお申し付けを」
「……」
「その他何でも、私どもへのご用命はこちらからどうぞ」
裾直し以前に『着ないと思う……』とボヤいたのだが、執事さんには伝わらなかったのか、タブレット端末を置かれた。
見覚えのあるロゴは葬憶隊の班長らに支給されているものと同じ『SUNNY』。サニーといえば国内でも一、二を争う大手の電化製品メーカーで、……もしかしなくてもテルイエグループの系列企業か。
使用人さんたちが下がり、一人になった蛍はとりあえずベッドに腰掛け――「!?」思わず振り返るほどふかふかだった。
こてんと倒れてみれば心地よく全身が沈んでいく。大きなマシュマロの上に寝ているみたい。
そういえば尉次が顔を見せないな、と思ったら、ちょうどそこで端末が鳴った。ディスプレイにはまさしく当人の名前。
『やあ、おはよう! 部屋は気に入ってくれたかい?
私はまだ帰れそうにないから、とりあえず昼に会おう。午前中は家の中でも見ておくといいよ。慣れないと迷子になりそうだって、留理子もよく言ってたから』
どうやら今この家にはいないらしい。重役出勤とかいう言葉があるのだし、社長ならもっと自宅でのんびりしてから出勤するものだと思っていたが、人によって違うんだろうか。
あと留理子の名前に宝石の絵文字が添えられているのが微妙に気になったものの、蛍はとりあえず『わかりました。お世話になります』と返信した。
迷子になりそう、という点については大いに同意できるので、さっそく連絡用タブレットでその旨を送る。
ややあって蛍とそう歳の変わらない若いメイドさんが現れ、屋敷内を案内してもらった。
泊まる部屋とお風呂、リビング、食堂あたりは毎日使うだろうからしっかり頭に入れる。問題は空いた客室やらなんやら、使わない、あるいは尉次らが仕事に使うことがあるため入ってはならない部屋も複数あり、それはそれで覚えねばならないことだろう。
見取り図とかないんですか、とタブレット越しに尋ねる蛍に、メイドさんも苦笑いした。
「ですよね、私も欲しいくらいです」
『?』
「実はここで働くのはまだ日が浅くて。先日もお坊ちゃまからお電話があったんですけど、出たのが私だったので、そうとわからなくて焦りました。何しろお会いしたこともなかったですし」
『ワカシ班長ですね』
「ええ。しかもちょっとふざけてらして、電話口でもお名前じゃなくて『街の掃除屋です』なんて言うんだもの……あ、そういえばこれ旦那様には秘密でお願いしますね」
『はい』
他に収獲といえばトレーニング室があることだろう。主に家主の磯彦氏が使っているそうだが、一応蛍も使っていいそうだ。
とりあえず蛍は撮影許可の降りた場所で何枚か写真を撮り、班のチャットルームに『すごい豪邸です。ベッドふわふわ』と送っておいた。鳴虎になるべくまめに状況を教えてくれと言われていたので。
数秒後、目玉を飛び出させた猫と顎の外れたウサギのスタンプがほぼ同時に返ってきて、ちょっと笑った。
→