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二十四、これより始まる

 蛍が去ったのち数秒置いてから、膝の上に移動されていた端末が振動した。時雨が跳ね起きて確認すると着電(ワン切り)の通知が一件。

 辺りを見回しても幼馴染みの姿はもうなくて、かすかなフローラル系のシャンプーの残り香だけが、誘うように鼻先にちらついている。


「……、っ」


 まず口許に触れ、それから胸を押さえる。もう完全に塞がって、最近はほとんど痛みも感じなくなっていたはずの傷跡が、またびりびり疼いているようで。

 思ったのはただ一つ、


 ――この鼓動は、蛍にも聞こえているだろうか。



 *♪*



 早めのアラームに叩き起こされる。目覚めてすぐは呆然としていたが、なぜこんな時間に設定したのか思い出した瞬間はっと目が開いた。

 パジャマ代わりのスウェットのまま、寝癖も直さず階段を駆け下りる。


 ダイニングにはすでに身支度を整えた蛍と鳴虎がいた。

 テーブルの上には温かそうなスープや焼きたてのハムエッグ、同じく湯気の立つカフェオレ、サラダなどが三人分、当たり前のような顔をして並んでいる。台所からはかすかにトースターの稼働音。

 時雨は思わず姉分の顔を見た。朝食担当は彼女だったはず。


「おはよ。何キョトンとしてるの?」

「……」

「はよ……。いやだってオレ、早起きするって言ってなかったよーな」


 普段ならまだ寝ている時間だ。蛍は出向の関係で、鳴虎はそれに付き合う形だが、時雨まで合わせる必要はない。

 だから昨夜は何も言わなかったし、逆に言われもしなかった。起こしに来たようすもない。

 なのにまるで知っていたように、何もかもが過不足なく目の前に用意されている。


 姉分は「伊達に十年あんたらの姉ちゃんやってないのよ」と不敵に微笑んだ。

 ちょうどトースターが高らかに鳴る。女性陣二人の前のトースト皿はすでに埋まっているのを見て、時雨は唯一(から)の自分のそれを取った。


 ……朝食のあと、蛍が荷物の最終チェックをしている間に急いで着替える。思ったより余裕があったのでもう少し整えることにして、洗面台で顔を拭いていると、背後でチリンと鈴の音がした。

 顔を上げずとも蛍だとわかる。声を出せない代わりに、笛やら鳴り物のキーホルダーを集めては、色んな持ち物に着けているのだ。


 実際、視線を上げると鏡の中に黒髪の少女が立っていた。


「鏡?」

「……」


 ふるふる首を振って、洗面台を使いたいのかというこちらの問いに否定を返すと、蛍はゆっくり歩いてきた。

 時雨は振り返らないどころか、鏡越しにすら蛍の眼を見られなかった。理由はもちろん、昨夜の、……非現実的すぎて微睡みの中で見た夢かもしれないと思いながらも、直後たしかに残っていた感触が、また唇の上に蘇りつつある。

 どういう態度を取っていいかわからず、手許のタオルを無為に眺めていると。


「……」


 蛍の口が動いた。時雨の脳は即座にそれに反応し、素早くかつ正確に形と動きを読み取って、彼女の言わんとするところを推測する。

 ――もう行くから。元気でね。


 そこで初めて気づいた。蛍も目を伏せていて、視線を合わせられないのは彼女も同じだったのだと。

 時雨が振り向いたのと蛍が背を向けたのはほとんど同時で、すぐ目の前にある幼馴染みの華奢な腕を、ほとんど無意識のうちに掴んでいた。

 はっとした表情で振り返った蛍の、黒髪が揺れてひらりとなびいた。


「蛍」


 何を言いかけたのか自分でもわからなくなっていた。何しろ言いたいことがありすぎて、胸の中に詰まってパンクしそうで、どれもこれもが大きすぎて喉に(つか)えてしまっている。

 今ここで全部は無理だ。伝えるためのろくな言葉すら持ってない。


 それでも、せめて。


「ッ……絶対、帰ってこいよ」


 ただそれだけ絞り出すのが精一杯だった。でもたぶん充分だった。

 何故なら蛍はそれを聞いて、熟れた桃のように頬の頂を色づかせながら、ぱあっと明るく笑ったからだ。


『――うん!』




 *♪*




 ハナビは『予定表』に見入っていた。ポジションは愛しのダーリンの膝の上で、最近はどうやらそこがお気に入りらしい。

 ほとんど重量もないためかダーリンも穏やかな顔で、言われるままページを捲る合間に彼女の髪を撫でたりしている。

 向かいに大股で腰かけたロックは対照的に仏頂面だ。セーラはというと、どこに居ればいいか図りかねたのか、なぜか窓際でカーテンを摘まんでいた。


 外の天気はいい。少し遠くにある地元テレビ局の銀色の塔もはっきり見える。

 そのローカル局が提供する朝のワイドニュースによれば、市内にある公園の幾つかが紅葉の見ごろを迎えたらしい。けれど化け物たちにはモミジより先に()()べきものがあった。


「チャンスだと思いましょ」と、ハナビは三者を一巡しながら告げた。


「もちろん蛍が強くなるのは困るけど、逆に言えば、しばらく葬憶隊(ミューター)の連中から離れるってことだもの。これは重要な情報よ。いきなりお手柄なんて、さすが私のダーリン♡」

「運が良かったんだよ。たまたま情報が得られるポジションに入れてもらえただけさ」

「それってつまり優秀ってことよ。ああでも、このままバカ正直に蛍を殺しに行ったら、あなたのことまでバレちゃうわね。他の人は彼女の動向を知らないんだし」

「僕を気にかけてくれるの? ハナビは優しいね」

「だって、ずーっと一緒にいたいもん。もう逃げ隠れする生活はイヤ。……今だって、ちょっと近所をお散歩するだけで、ほとんどお出かけできてないんだし、まだまだ自由とは言えないわ」


 怪物の女王はぷくりと頬を膨らせる。

 葬憶隊に見つからないよう、細心の注意を払っていれば身の安全は保障されるが、代わりに何もできやしない。これでは生きている甲斐がない。


 そう、彼女の抱える一番の問題はそこだった。


 まず第一に存在を認知されたのがまずかった。といってもこれは今さら悔やんでも仕方がない。

 次に、鉦山で蛍を殺し損ねたのがいけなかった。葬憶隊のことを調べてはいたものの、出逢わないようにしてきたのが裏目に出て実経験が足りず、増援の女隊員に手ひどく痛めつけられてしまった。

 つまり脅威は蛍だけではない。ハナビを完全に消滅させられるのは今なお彼女一人だが、それ以外の手合いもある程度の警戒が必要だと学んだ。


 次こそ確実に蛍を始末する。今度は葬憶隊に邪魔されないよう、策を練った。

 闇雲に襲っても埒が明かないと悟り、敢えて潜伏期間を設けて、じっくりと準備をしてきたのだ。仲間を作り、環境を整えた。


 そこへ巡ってきた、この千載一遇の好機。


「慎重にやらなくちゃね。用意はいい?」


 女王の問いかけに、三者三様の首肯が続く。

 かつて家主を苛んだ冷淡な妻は死んだ。夜が明け、窓の向こうに太陽が昇っても――この家は変わらず、白く冷たい闇の支配下にある。




 → next chapter.

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