二十三、出立前②
居間のテレビでは中学生思念自殺事件の続報が流れていた。相変わらず世論はいじめを行った生徒や、それを放置していた学校に対するバッシングに偏重しているが、そろそろ新しい意見も出始めたようだ。
つまり本体を殺害した音念――厳密には騒念だが、ハナビの関与もあって伏せられている――が未だ逃走中であることへの懸念である。
これまでは遅くとも事件発生から一週間程度で発見・駆除がなされていた。一般市民の心理的な猶予期間が過ぎ、成果を上げない葬憶隊への不満や不信が高まりつつある。
実際、手許の端末を操作してみればその手のSNS投稿が見放題だ。時雨は溜息をついて画面をブラックアウトさせた。
ハナビは野放しのまま勢力を増している。気の休まらない状況が続く中、蛍のテルイエ技研への出向が明日に迫っていた。
不安をやり過ごすためだけに何度『もう好きにしろ』とボヤいたろう。それも面と向かってではなく、一方的に部屋の壁越しに投げつけたので、向こうの反応を見てすらいない。
見られなかったのだ。もしそれでも蛍が平然としていたら、どうしようないほど惨めな気分に陥るから。
「……」
ニュースが切り替わって、画面の中は全く別の話題に移る。時雨だけがこの場に取り残されていた。
どこか冷ややかなキャスターの声をBGMにぼんやりしていると、じんわりと眠気が下りてくる。夜あまり眠れていないせいだろう。
微睡みながら、なぜか五来先生に言われたことを思い出していた。
『空蝉、おまえは間違っちゃいない。大事なのはやり方だ』
(……もう色々手遅れな気する)
『清川には伝えたか? ……なら言ってみろ。照れくせぇだろうが、効果はテキメンにあるぞ』
頭ではわかりつつある。情けなくてもみっともなくても、本音を吐き出さないことには、進むことはおろか後戻りさえできないことが。
このままだと蛍を失う。たとえハナビに殺されなくても、きっと彼女は手の届かないところに行ってしまう。
けれどその一歩を踏み出すべき場所が、時雨には底なし沼のように思えてならない。足を下ろせば、そのまま沈んで二度と抜け出せなくなりはしないかと、恐ろしくてたまらない。
なりふり構わずすがりついたら、蛍はどう思うだろう。どこにも行かないでほしい、一緒でないと耐えられないのはこちらのほうだった、と。
そのとき彼女が半色の瞳に浮かべるのは、失望か、軽蔑か、それとも憐憫だろうか。
――結局、自分は蛍に必要とされるに足る人間ではなかったのだろう。それが露呈するだけ。
*♪*
お風呂上がりに鳴虎を訪ねたら「ごめん、ちょっと手離せないの」と、ノートPCとにらめっこしながら言われてしまった。班長は最近やたら事務作業を持ち帰っているのだ。
鳴虎の仕事のやり方が変わったのではなく、実動部隊全体の割り振りの関係らしい。要は萩森班が通常の巡回任務に出られない代わりの措置とのこと。
何にせよ今の蛍にとっての問題はただ一つ――入浴の順番が入れ替えになってしまった。
モモくんは出勤中。つまり鳴虎を飛ばすと、残るは時雨のみ。
最近……というより蛍の出向が決まってから、彼はますます不機嫌がちになってしまい、話しかけるのが少しだるい。
「あ、チャットしとくからいいわよ。あんたは明日早いんだし先に寝なさい」
「……」
頷いたものの。鳴虎がグループチャットを使ったので自分の端末で開いてみれば、いつも時雨は反応が早いのに、返信どころか既読すらつく気配がない。
気になって耳を凝らしてみると。
(……やっぱり)
やたら規則正しい呼吸音が聞こえたので予想はできたが、時雨はリビングのソファーで居眠りしていた。
端末を探すと少し離れたクッションの上に放られている。それで着信時の振動にも気づかなかったのだろう。
起こそうと伸ばした手が途中で止まる。目を覚ましても、……彼が笑いかけてくれないのを知っているから。
最近は夜中によく部屋でぶつくさ言っているのを聞く。以前は滅多に独り言なんて言わなかったから、あれはきっと蛍には聞き取れると知っていて、わざと喋っているのだ。
ずいぶん回りくどい方法だけれど無理もない。蛍が彼の提言を真っ向から無視したので、正面から言っても無駄だと思わせたんだろう。
(……私だって仲直りしたいんだよ。ハナビが出てくる前に戻りたい)
でも、それも無理だと知っている。蛍のほうが――自身ではなく環境が、変わりすぎてしまった。
もう単なる葬憶隊のいち隊員ではない。可哀想な女の子の身体を借りた、化け物殺しの人造生命体だとわかってしまった。
まともに話し合う機会がなかったから、そのことについて時雨がどう思っているかはわからない。
表面的には、事実を知らせる前後でほとんど態度が変わらないが、内心ではどうだろう。単に彼が事態の深刻さを理解していないだけとも考えられる。
楽観的になれる要素は今のところ、何もない。
……もし時雨に拒絶されたら、そのときこそ蛍は完全に終わりだ。
それなら。――中途半端に宙を漂わせていた手を、まっすぐ伸ばして届かせる。カサついて少し脂っぽい頬の感触。
自分でもよくわからない。みんなにはよくからかわれるけれど、結局蛍は時雨をどう思っているのだろう。
恋愛ものの漫画やドラマを観て得られるようなときめきは当然ない。それらのヒーローが持つ恰好よさなんて、時雨にはこれっぽっちもないからだ。
見慣れた顔は、愛嬌はあれど精悍でもイケメンでもないし、今わかるとおり肌の手入れが足りていない程度の清潔感しかない。ロマンスが孕む特有のファンタジックさとは真逆の生活感に溢れている。
けれど、ただ一つだけ確かなのは。
『――ねえ蛍。ものは試しでさ――』
ソファの端に膝を乗せ、屈みこんで、唇を重ねた。
ほんの一秒か二秒。軽く触れさせただけなのに、顔の近さに面食らってすぐ離れてしまった。
思いのほか柔らかな感触が残るそこを思わず前歯で噛んでしまう。心臓が今にも千切れそうなくらい激しく、潰れてしまいそうなほど切なく震える。
姉分はああ言ったけれど、時雨が目を覚ます気配はない。
やっぱり自分たちは白雪姫でも眠り姫でも、あるいはカエルの王子様でもないらしい。なんなら状況的には人魚姫のほうが似つかわしいかもしれない。
伝えるための声を持たない、人の世に紛れ込んだ人ならざる者。
「……」
――でもね、時雨ちゃん。
私は泡になって消えたりしない。絶対に。
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