二十二、出立前①
蛍の要望により、いきなり完全に引っ越すのではなく、向こう一カ月ほど照廈邸に滞在して特訓を受けることになった。
その間は葬憶隊員としては活動できないが、総隊長命令の形にしてもらったので出向の扱いになる。
例によって間に入るのはワカシ班長。相変わらず尉次相手には野良猫みたいに警戒した態度だが、蛍に対しては一転、ごくごく丁寧に対応してくれる。
……気を遣われすぎて、正直ちょっと反応に困るくらい。
なんなら鳴虎にまで「この度は叔父がすみません。清川さんのことは、ボクが責任を持って丁重に扱われるよう配慮させます」とかなんとか深々と頭を下げるので、そっちもかなり戸惑っていた。
「ていうかあんた、いつもとキャラ違くない……?」
「ふざけていい場面じゃありませんから」
「ま、まあそうだけど」
そんな班長同士のやりとりをぼんやり眺めていると、ワカシがちらりと蛍のほうを見た。今日はサングラスのレンズが小さめで、端から覗いたあやめ色の瞳に、明らかに動揺の色が載っているのが見える。
まだこちらの決意を飲み込めていないのか、と思った蛍だったが、どうもそうではないらしいと数秒後に察した。
なんだか眼が泳いでいるような。いやそれも違う……緊張している?
ワカシのさりげない挙動不審に鳴虎も気づき、こちらはわかりやすく訝しみの視線を送る。
「何? うちの蛍に何か?」
「あ、いえその、……ボクと清川さんて、別に似てないですよね」
「……そっか、一応あんたたち従兄妹? なんだっけ。そうねぇ……しいていえば垂れ目な感じは似てなくもないけど、言われなきゃ親戚だとは思わないかな」
「……」
「――ぷっ」
何気ない蛍の呟きに鳴虎は小さく吹き出したが、唇を読み取れなかったワカシはぽかんとして「えっえっ? 何です?」と慌てている。
「『お兄ちゃんが増えた』って。ちなみに一号は椿吹のことね」
「へ……あ、あぁ……」
「じゃああたしの妹を頼むわよ、お兄ちゃん?」
「ハハ、……心得ました。じゃあボクはそろそろ行きますね」
蛍は別にそういうつもりで言ったわけではなかったが、面倒だし否定するほどでもないので黙って見送った。ちなみにここは葬憶隊支部の廊下である。
総隊長執務室に向かう途中、そこから出てきたワカシと会ってなんとなく話していただけなのだ。
というわけで、やや時間を空けながら彼と入れ違いの形で入室すると、そこには思わぬ数の人影がひしめいていた。
見知った顔が四つ――反音念チームの面々である。
いち早く蛍たちに気づいた御手洗さんが「あ、こんにちはー」とあの通りのいい声を上げたので、それを皮切りに挨拶の応酬が続いた。
「面子は揃ったね。では、そちらから説明を始めていただこうか」
「かしこまりました。
まずは改めて萩森班長に自己紹介させていただきましょう。テルイエ技研の温井と申します」
「よろしく。照廈尉次氏の代役ってことですね?」
「そう捉えていただいて結構です。基本的に所長への連絡等は私を通してください。
ではさっそく清川さんの訓練予定表をお配りします。むろんトレーニングの内容は習熟度に合わせて都度変更しますので、あくまで参考程度ですが……」
温井さんは紙ホチキスで角を留めた四、五枚くらいのプリントを全員に配布した。それを元に細かな説明が続く。
トレーニングには反音念チームの面々も参加するらしい。といっても医者の蛯沢さんは定期的に報告を受け取る程度で、直接赴くのは技術担当の御手洗さんと釜寺さんだけ。
蛍にとって重要なのは、鳴虎も事前に許可を取れば会いに来られる点である。ワンクッション挟む時点で、いつでも自由にというわけにはいかないけれど、完全に隔離されるよりはマシだ。
その項目に眼を通した鳴虎も恐らく同じ点を不満に思ってそうな表情で、温井さんに質疑を投げかけた。
「これ、あたし以外は断られるのかしら。誰かを同伴するとか、代理を立てたいこともあると思うんですけど。具体的には空蝉時雨」
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
「あたしの部下……つまりこの子の同僚で、蛍とは十年来の幼馴染みです。要は家族も同然の仲」
「……承知しました、所長に話を通しておきましょう。なるべくそちらのご意向に沿うようにとのことですから」
「意外と融通が利くんですね」
「なんでも甥御さんからの強いご要望だそうですよ」
「あぁそう、なるほど。じゃあよろしくお願いします」
毅然とした雰囲気で頷く鳴虎を、蛍は少し呆けながら見下ろす。同伴くらいならまだしも、時雨を代理に寄越すなんてこと、あるだろうか。
ほんの一ヶ月。喧嘩中の二人が冷静になるには充分な時間……その間に仲直りすることを期待されているのかもしれない。
そのあともいくつか確認や調整をして、話し合いは終わった。
*♪*
御手洗がいつまでも日程表を読み耽っているので、釜寺は少し呆れながら彼の肩を叩いた。
反音念チームの業務は極秘だ。いくら作業デスクが個別に仕切られているからって、ここで堂々と広げていたら、背後から他の同僚に覗き込まれかねない。
「随分楽しそうだな」
「あーうん、そりゃね。そりゃもう。けど言ってみればこれ出張じゃん? 嫁ちゃんにどう説明したもんかねぇ」
「あぁ、御手洗の奥さん結構うるさいんだっけか」
「はははカマには言われたくない」
「どういう意味だよ」
憮然と聞き返す釜寺に、御手洗は苦笑しながら肩を竦める。
「女心は計測できんもんね。寂しいって言うからリモートワークにしたら、ずっと家に居られちゃウザいとくる。その心は?」
「毎日出勤して定時で上がれ、かな。うちもそんな感じだよ」
「でもほら、こないだ奥さんインフルエンザなったっつって、有給取って看病したげてたじゃん。あれは感謝されたでしょ? ほーんとカマは愛妻家っすなぁ」
「普通だ。でなきゃ世の男が伴侶を大事にしなさすぎてるだけだと思うね」
「キャア耳が痛い、エビさんに診てもわらなきゃっ」
御手洗はふざけて背を丸めた。椅子に座っている彼を見下ろす恰好だったから、その角度になって初めて、太い眼鏡の縁の下に隠れていたそれが見えた。
小さな痣。色は大分薄いが、古いというよりファンデーションか何かを塗って誤魔化している。
思わず「それ……」と指摘した。むろん指示代名詞だけでは伝わらず、結局「目のとこ。怪我でもしたのか?」と続ける。
陽気な同僚は彼らしいおどけた仕草で「実はドジっちゃって」と苦笑してみせた。
→