十八、喧々再び
今日の夕食は蛍の担当だが、自分が当番でないときも手伝ってくれるのが萩森鳴虎という人である。
カレーの芳ばしい匂いが漂う台所には人影が四つ。モモスケが寮に移ってきてからすでに一週間が過ぎたが、こうして食卓に全員が揃うのは初めてだ。
鳴虎の「配膳はセルフサービスね」の声を背に、蛍は時雨用のカレー皿を手に取る。一応まだ怪我人の扱いなので。当の時雨も何も言わない。
とくに確認を取らなくても、だいたい一食目にどれくらい食べるかは知っている。足りない分はおかわりで補うだろうし。
おおよそ適量と思われるライスとカレールーをよそって差し出すと、時雨は「ん」と満足げに受け取った。
「……信じられる? あの子らこれで喧嘩してんのよ」
「えぇ……。毎回こうなんすか」
鳴虎はちょうどいい雑談相手がいて助かった、という顔で頷く。
「まあ、喧嘩自体はしょっちゅうでも、こんなに長引くのは珍しいんだけどね。
それじゃ食べましょ。いただきまーす」
「……」
「モモくん、味どうだ、って」
「ん、旨いよ。てか人が作ってくれた飯って温かいなぁ……これならもっと早く移ってもよかったかもしれんわ寮。家賃も相場より安いし」
「そうよね。むしろなんで今までアパート借りてたの?」
「や、まあ色々と。共同生活ってなると、やっぱプライバシーとか、そういうの気になるんで……」
「へー、繊細なんだ。じゃあわりと椿吹と気は合ってそうね」
「いやぁどうでしょ。俺あの人ほど几帳面じゃないですし」
モモくんはうっすら苦笑を浮かべるが、匡辰の性格をよく知る残り三人は、それは逆に丁度いいだろうなぁと思うなどした。
鳴虎が世話焼きなのと同じように――彼女とは別の方向性で、彼も人や物の管理業務を好むからだ。部下があまりきっちりしすぎないほうが手出しの余地があっていいだろう。
その後もぽつぽつ雑談を挟みつつ、薫衣荘としては静かな夕飯が続いた。時雨もまったく無言というわけではなかったが、主に鳴虎が話を振って返事をする程度で、自分からはあまり喋らなかったからだ。
姉分がそれでだんだん寂しそうな表情になっていくのには気づいているだろうに。
せめてと思い、蛍はなるべく彼の態度を気にしていないふうに振る舞った。今、周りの助けが必要なのは時雨であって、自分は平気だと伝える代わりに。
「ごちそうさまでした。さ、洗い場に出す前にお皿拭いて」
「あ、俺やりますよ、皿洗い」
「いいの? あ~実は事務作業持ち帰ってきてたから助かる、ありがと!」
そのままリビングに向かおうとした鳴虎は途中でふと振り返り、
「――あんまり気遣わなくていいからね」
ごく軽く、少し苦笑の滲んだ声でモモスケに言った。
蛍と時雨は思わず無意識に顔を見合わせてしまい、お互い視線が交わった瞬間「しまった」と思って、それぞれ明後日やら皿やらの方角に逃げる。喧嘩中にこれでは鳴虎に笑われるのも無理はない。
それはそれとしても変な感じだ。いや、モモくんが気を遣っていることは、蛍もうっすら感じてはいたような気がするけれども。
なお当人は何も答えず、ただちょっとだけ困ったように口角をひねっていた。
洗いものをするモモくんのうしろで、蛍は台所の清掃とゴミ捨てをする。夕飯の当番にはそこまで含まれているので。
珍しく時雨も皿拭きを申し出たので、男子二人がぽつぽつ喋るのを聞いていた。
モモくんが言うには独居生活が長かったので、人と食卓を囲むこと自体が久しぶりだったらしい。さっきの『温かい』はそういう意味か。
蛍もこのごろ入院を繰り返していたから、少しだけその気持ちがわかる気がした。一人で食べるごはんは味気ない。
「……それに飯作ってくれるような親じゃなかったからな。沁みるわ……」
「え、マジで本気で感動してんの」
「おまえも一人暮らしすりゃわかるよ。ってもそんな機会ないかもしれんが」
なぜかそこでモモくんはちらりと蛍のほうを見た。
うん? 何ですか?
エッサイくんに続いて貴方までそういう扱いしてくるんですか?
むう、と照れ混じりに膨れる蛍とは違い、時雨はそうかもなぁとボヤいている。
「――もし蛍が葬憶隊辞めて寮も出るってなったら、オレもついてこーかと思ってたし」
……。
蛍はもちろんモモくんも無言だった。といっても前者の心は『なんでモモくんにそういう話するの、辞めないって言ったでしょ』という怒りが主であったが。
「あー……おまえらって付き合……」
「はぁ!?」
「!?」
「……ってないんだよな?」
「当たり前じゃん。なんでそうなんの。てかね、オレと蛍は世間でゆーところのキョーダイみたいなモンなの。もちろんオレが兄貴ね?」
「……!? ……、……!」
「あーもーいちいちキレんな、例え話だっつの。……でッ! だからそやってすぐ手ェ出すのやめろ、そーゆーとこがガキだっつってんだよ! 」
「~ッ!」
冷戦状態からすっかり爆撃が再開してしまい、蛍は涙目で時雨を睨んだ。
腹が立つのは否定しきれないからだ。届かない声を紡ぐのを諦めて、手や足で暴力的に語るのは悪い癖だと、蛍自身も思ってはいる。
唖然とするモモくんの視線が痛い。彼は読唇できず、蛍の言い分が聞こえていないから、傍目にはキレて相方を殴るだけにしか見えないだろう。
弁明の方法がないし、そもそも前提――蛍が時雨を頼ってばかりいる――がさほど間違っていないのが悔しくて堪らない。
やりきれなくなった蛍は、口を結びかけていたゴミ袋を放って、台所を飛び出してしまった。
(時雨ちゃんの馬鹿! 大っ嫌い……)
リビングで作業していた鳴虎の脇を走り抜け、自室に飛び込む。不安で仕方のない心を布団の中に潜り込ませ、ぼろぼろ崩れていくプライドを頬の上で拭いながら、思った。
嗚咽すら、きっと誰にも聞こえない。
せめて時雨にだけはわかってほしかった。
そんなふうに思ってしまうことが、すでに蛍の弱さを証明している。
(強くなりたい)
ふいにそこで、腰元にぶるっと振動が走った。蛍はのろのろと布団から顔を出し、ポケットから端末を引っ張り出して、通知の主を検める。
――照廈尉次。
そういえば連絡先を交換していたっけ。たぶん用件は今日やった検査のことだろう。
ぼやける視界をもう一度拭ってから、蛍はチャット画面を開いた。すがるような思いで。
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