十六、薫衣荘の新たな住民②
モモくんはもともと個人的にアパートを借りて一人暮らしをしていた。それも彼の言葉を借りるなら『築五十年越えの超オンボロ』な、たいそうお安い物件に。
そこが経年劣化を極めてついに建て替えが決まり、代わりの住まいを探していたが、家賃交通その他の条件が合うところがない。で、やむなく最終手段で寮を選んだのだとか。
蛍にとって彼の事情は重要ではない。問題は『居住空間に時雨以外の男性がいる』こと、ただ一点である。
別にモモくんに対して好ましくない感情はとくにないし、よく知らない新人の類よりいくらか安心なくらいだが、とにかく慣れなかった。
彼は夜勤なので勤務時間は入れ違いになり、あまり顔を合わせる場面はない。
でも例えば風呂や洗面所は共同なので、排水溝に落ちている毛髪だとか、洗濯カゴが動いた痕だとか増えた歯ブラシだとか、そういう細かいところでいちいち気配を感じるのだ。
で、今日はそれだけに留まらず。
「……おお。はよ、清川」
「……」
もちろんシフト切り替えもあるので、そうなるとモモくんも朝に起きてきて、こうして直接対面するわけである。
テーブルに萩森班以外の人間が着いている光景。
うん、……やっぱり変な感じだ。
「……?」
「ん?」
「あー、鍋にスープ残ってるの。温めて飲むかって聞いてるんでしょ」
「そう? そうか、じゃあもらいます。ありがとうな」
円滑なコミュニケーションができないのも。織り込み済みとはいえ、もどかしさがないわけではない。
こういうときはやっぱり時雨がいてくれたほうが助かる。
……喧嘩続行中なので頼らずに済んだほうがいいのだけれども。それは自分たちの都合であって、なんだかすまなさそうなモモくんには、不便をかけてこちらとしても申し訳ない。
「蛍はそろそろ支度しなさい。で……ねえ尾被くん、ちょっと頼みがあるんだけど」
「なんすか?」
「時雨を迎えに行ってもらえない? あたし今日は終日当直で、夜まで身体空きそうにないから。もちろん埋め合わせはする。当番免除とか、まあ細かいとこは要相談ってことで……」
「ぜんぜん良いっすよ。暇なんで」
「ありがと~、助かる! じゃこれ車の鍵。――蛍、聞こえてたでしょ、今日は歩きで行くからねー」
あまり声を張らずに天井に向かって語りかけた鳴虎に、モモくんは「聞こえないんじゃ……」と疑問を呈したけれど、班長は迷いなく頷く。
「あの子、耳すごくいいから」と。
実際、蛍はそれらの会話を自室にいてすべて把握していたし、階段を下りながらモモくんが「本当かよ」と呟いていたのも聞こえていた。
*♪*
無意味だと思いつつ、時雨は気づけば端末で班の任務状況を確認している。
そのうえ暇になれば身体を動かしているから、傍目には前向きにリハビリしているように見えるかもしれない。実際はただの癖だ。
ベッドの下には蛍の検査結果が転がっている。
一応、眼は通した。だがもともと気分が乗らなかったのと、めちゃくちゃな内容に思わず放り投げてしまって、ずっとそのまま。
もう一度それを拾い上げても開く気にはなれなかった。
――ふいにノックの音が肩を叩く。
蛍ほど耳が良くなくても、鳴虎じゃないのだけはすぐにわかった。彼女なら二秒後には無遠慮に扉を開いただろうから。
「よ。相変わらず暗いな」
「なんでモモくん? ハゲワシくん居らんよ」
「そりゃ知ってる。今日は萩森班長のお使いだよ、退院だろ」
「ちょい待って。……あ、めー姉からメッセージ来てたわ。見とらんかった」
モモスケが寮に移ったことは聞き及んでいる。それ自体はどうでもよかったが、こういう面もあるのかと、時雨はひそかに呆けていた。
これまで鳴虎の代役を務めるのはもっぱら匡辰だった。他の人なんて考えたこともない。
「つーかモモくん車の免許あんだ。スクーター乗ってんのは知ってたけど」
「まとめて取った。安かねえけど、ありゃ便利だからな」
「ふーん」
駐車場に出て、車を貸したのだとわかって、なんとなくそんな会話をした。
寮までは一人でも歩いて帰れない距離ではないのに。そりゃあ荷物を持ってでは、少しは傷に響くかもしれないが。
やたら入院させたがる支部もどうかと思う。
時雨だけでなく、蛍やハゲワシくんだって生活介助が要るほどの重傷じゃなかった。自宅で安静にしていればいいだけだ。
前にちらっと聞いたところでは、予算の都合がどうだとかの、いわゆる大人の事情というやつらしい。過剰に手厚いケアより給料に回したほうがよっぽどいいと思うが。
後部座席に荷物を放ったあと、少し考えてドアを閉めた。
いつもは蛍がいるから助手席は選ばない。ずっとそれが当たり前だったから、稀に別行動すると途端に違和感が付きまとう。
「まーでも助かるわ」
「何が?」
「空蝉がおらんと清川が何言ってるかわからん。あとやっぱ男一人だと気まずいしな。個室あるっても、あれじゃほぼひとつ屋根の下で同居みたいなもんだろ」
「なんじゃそら。つか、めー姉も蛍もゴリラじゃん、気にする必要ある?」
あんまりな言いぐさにモモくんは苦笑いを浮かべた。運転手の横顔を見ていても面白くはないので、視線を左へ転がして窓枠に肘を衝く。
景色はあまりにも無感動に流れていく。
今、ドアロックを外して路上に転がり落ちたなら、どれくらいの怪我になるだろう。後続車両に轢かれれば死ぬこともあるだろうか。
「……もう十年一緒にいるし、女だと思ったことねーわ。家族みたいなもん」
「へえ。おまえと清川、異常に仲いいから、そういうの越えてんのかと思ってたわ」
「異常て……、まあ蛍は特殊だしね」
サイドミラーに映る己の顔が、少し笑っているのを見た。
蛍の言葉をうまく『通訳』できる男が他に現れないかぎり、彼女は時雨を頼らざるをえない。
そう考えると少し気力が湧く。――まだ死なない理由が一つある、と思えるから。
だからこそ、……ハナビのことを考えると気が滅入る。
「あ、蛍といえばさ。……もー手遅れかもしれんけど一応言っとくわ。モモくん、あいつがいるときはオナニーすんなよ。部屋だろうがどこだろうが家ん中だったらどこでも聞かれっからね」
「……は?? ……マジでそんな耳いいのか?」
「マジ」
「……、そりゃ経験者からのアドバイスか」
「まさか。十年一緒だっつってんじゃん、オレはそんなヘマせんよ」
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