十四、邪悪な鏡像
少女たちの手は、触れ合ったところから溶けて混ざり合う。
セーラがずるずるとハナビの中に飲み込まれていくのを見て、やっぱ気色悪ィわ、とロックはボヤいた。
あたりは明るい。ヘドロも悪臭もない。
カーテン越しに柔らかな陽が注ぎ、すっかり掃除されたフローリングの床の上に、レースの柄を写した影がちらちらと揺れている。
ご丁寧にも怪物たちの足許は靴下だ。彼らに土足という観念などないはずだが、おのおの本体から引き継いだ文化的価値観が、自然とそうさせるのだろう。
「え、なんで?」
「いや……セーラが食われてるように見えっからよ」
「違うってば、ちゃんとここに居るわよ。お友だちを食べちゃうほど飢えてないし」
いいから始めてちょうだい、とハナビは言った。といってもロックにではない。
にわかにハナビの体表が、あたかも皮膚の内側で虫が蠢いているかのように、うぞうぞと膨れて歪に捻れる。そのまま粘土を捏ねるように変形し始めた。
眼尻や鼻の形が別人の様相を呈する。白い髪とワンピースは絵の具を垂らしたようにさっと色づき、それぞれ波打ったり模様が加えられ、体型もいくらか肉付きが良くなった。
そこに立っているのはもはやハナビではなく、死んだはずの女の姿だ。
姿見の前でくるくる回り、前後左右もれなく確かめながら、ハナビは満足げに息を吐く。
「うん、良い感じよ。ねぇダーリンも見て、どーお?」
「ああ……見た目はそっくりだ。あともう少し背が低ければ完璧。僕の顎くらい……そうそう」
ハナビの問いかけに答えた『ダーリン』は、この場にいるもう一人の男である。
いくらか癖のある三体の怪物たちと違い、彼の外見にはこれといって特徴はない。焦げ茶に染めた短髪に、ボタンダウンの白いワイシャツと明るいグレーのスラックスを身に着けた、ごく普通のサラリーマン風の出で立ちをしている。
擬人化した音念は原則として自身の本体の姿にしかならない。
十年も活動し続けているハナビのような狡猾な騒念でも、十六歳の蛍と出逢うまでは、つぐみが死んだときの姿のままだった。それ以外では変形させるのも手足など一部分のみに留めている。
根本的に『想像』できないのだ。元はいわゆる散開型……固定化した姿すら持たない曖昧な存在であるゆえに、自身の発声源くらいしか基準といえるものがなく、そこから大きく変えることは形態崩壊のリスクをはらむ。
けれどもセーラには固有の才能があった。
美術を愛好していたという本体から引き継いだ空想能力。単に色かたちを似せるよりも高度な彼女の擬態は、細部まで破綻なく完璧に再現されている。
これこそハナビが彼女に目をつけた理由である。どうせ仲間に引き入れるなら、なにか便利な才のある者が好ましい。
ロックも彼の本体が音楽を愛していなければお声はかからなかったろう。それが今後どう役立つかはさておき。
ともかくハナビは一時的にセーラと融合することにより、ダーリンの亡き妻の身代わりを演じる。あとは死体さえ処分すれば殺人が露呈することはない。
ハナビ自身も表向きの身分を手に入れられて、お互いWin-Winというわけだ。セーラにしても本体の死亡事件が大きく報道されてしまったため、表立っての行動がしづらい状況にあるから、じつに一石三鳥。
ついでにダーリンの家という新たな活動拠点を得て、騒念たちはにわかに活気づいていた。いくら人間のような知覚を持たないといっても、生臭く汚れた下水道での生活は、怪物にとってもあまり楽しくはなかったようだ。
「じゃあ僕は仕事に行くよ。今日は出勤日だから」
「はぁい、がんばって♡ 私も少し出歩いて奥様気分を味わってこようかなー。ロックくんはどうする? お留守番?」
「や、俺も出かける。行きてぇとこあんだ」
「そ。じゃあ耳貸して」
言うなりハナビはロックの頭部に手首を突っ込んだ。なんとも言えない感覚に青年が目を細めている間にすぐ引き抜かれたけれど、半透明の糸のようなものが、それぞれの耳と指先を結ぶ形で伸びていた。
定まった形状の肉体も、携帯電話端末も持たない代わりに、互いの身体を物理的に繋げるのが彼らのやり方なのだ。
「……前から思ってたけど必要あんのか? オメー本気出せば俺より強いだろ」
「そういう問題じゃないの。私を守るのはみんなの仕事だし。それに賢いオンナは無暗に自分をひけらかさないのよ。
あとぉ、この姿の私のことは何て呼ぶんだったかしらー?」
「あー……んだっけか。『リカコさん』?」
「はーい。まぁうちの中ではいいけど、お外ではちゃんと設定を守ってくれなきゃダメよ。悪い子は食べちゃうから」
ロックは肩を竦めた。まったく恐ろしいご主人様だ。
――と思っていたら、急にハナビ……もとい『リカコさん』の表情が変わった。姿はそのままでも、中身が別人に替わったことが一目でわかるくらいには。
囁くような声で「あ、あの、……あり、がと」と呟いて、『彼女』はそっとロックから目を逸らした。恥じるように。
「? 俺なんも礼言われるようなこたァしてねーけど」
「――ロックくんてば鈍いのねぇ。さては女の子にモテないでしょ、本体」
「るせェ」
また口さがないハナビに戻ったらしかったので、ロックはさっさと『リカコさん』に背を向けた。
行くべき場所がある。玄関の扉を開くと同時に身体を崩し、人が散開型と名付けた形態へと変化したロックは、それを視認しづらいほど薄く広げて大気に交じった。
文字どおり風と一つになって向かった先は、いわゆる工場地帯。納港区の名称どおり近くに漁港を臨み、まだ早い時間帯ながら、夜勤の労働者が朝日を拝みながら仕事の後始末を続けていた。
そこに一人の青年がいる。短く刈り上げた黒髪を安全ヘルメットに収め、マフラーのように首に巻いたタオルに汗を染みこませながら、運送パレットに積まれた荷の確認をしているようだ。
周りに人けがなくなったのを見計らい、ロックは彼の眼前に集積しながら再度擬人化した。
青年は両目を見開き、絶句して、ふらりと一歩後ずさる。
ロックは構わず歩み寄る。
二人は――もとい、一人と一体は、鏡写しのようにそっくり同じ顔をしていた。
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