十一、燻ぶる家
すでにショータの帰宅時間になっていた。
小一時間も音念の群れに揉まれた少年は、すっかり疲れ果ててふらふらだったので、文句ひとつ言わずに隊用車に乗り込む。せっかくなのでコハルも同乗させることにした。
とはいえ、ワカシもさすがに今は運転できそうにない。
で、代わりにキーを預かったのは。
「……ナギサさん、くれぐれも安全運転でお願いします」
「なぜ信用のなさそうな言い方を?」
確かに彼女の財布の中にはゴールド免許が入っており、すなわち法的には無事故および無違反の優良ドライバーである。それだけ見れば不服そうな反応も無理はない。
しかしこんな世の中。国内屈指の自動車大国と呼ばれる当県――良くも悪くもテルイエ系列企業『ST自動車』がその誉れに貢献している――は、同時に『運転が荒い都道府県ワースト3』常連の汚名も被っている。
そこへきて市民の鬱憤の捌け口、普段の巡回でもよく絡まれるでお馴染みの葬憶隊は、当然あおり運転の標的にもなりやすい。
運転手が女性なら尚更だ。座れば身長も目立たないので、ナギサも一見ただの美女。
ワカシの憂慮を乗せて走り出した隊用車は、案の定やたら車間を詰められたり、挑発的にクラクションを鳴らされる場面が相次いだ。次第にナギサの表情は曇っていく。
後部座席の若者二人はそれでも疲れに任せて眠ってしまったけれど。
「チッ……」
舌打ち、これで何回目だろう。
隣のワカシはちっとも気が休まらなかった。何か起きても止める手段がないので尚更だ。
女性とはいえ喧嘩慣れした百戦錬磨の元ヤンキーと、荒事知らずの箱入りお坊ちゃんでは、たぶん勝負にならない。――とくに惚れた弱みもある場合は。
幸い悪質な相手に遭うこともなく、なんとか目的地に到着した。
納琴市東部、千歳区笛下。ハナビの関与が認められた思念自殺の現場でもあり、事件の影響を引きずってか、日没前の駅周辺は閑散として侘しい雰囲気が漂っていた。
ショータの家はそこから少し奥まったところにある小ぢんまりしたマンションらしい。ナギサは辞退したので照廈班の三人だけでエレベーターに乗り込む。
「ところでこの時間帯って、親御さんは家にいるの?」
「母さんは在宅パートなんで……、てかなんで二人ともついてくるんすか」
「ご挨拶しようと思って。あっリーダー、サングラス外してくださいね」
「え……あー……うん、だよね……。ハァ……この顔見てあんまり引かれないといいな……」
「……そういう理由……?」
ショータが意外そうに目を細めている。
ワカシが火傷の痕を気にしていることは、なぜかよく不思議がられるのだけれど、こんな大きな傷が顔のど真ん中にあっても気にせずに生きていける人のほうが少数だろう。
まあこれも普段の振る舞いの賜物なのか。良くも悪くも。
ともかく部屋に到着し、少年は「ただいま」といくらか小さな声で言った。室内からは返答がなかったけれど、ショータは慣れたふうで、靴を脱ぎながら「呼んできます」と続ける。
コハルと顔を見合わせていたら、ややあってそれらしい人物が顔を出した。
顔立ちは息子によく似ている。これっぽっちの愛想もない、どこか疲れたような表情までも。
なんなら少し迷惑そうに「葬憶隊の人?」と尋ねながら、無遠慮にワカシの顔をじろじろ見てきたところにも、嫌な意味で既視感がなくもなかった。
「ショータくんのお母さんですね。ご挨拶が遅れてすみません、班長の照廈といいます。こちらは隊員の干野さん」
「干野コハルです」
「あ、そう。どうも」
一応名刺があるので渡しておく。冷たい視線は紙の上を滑っただけで、あまり興味はなさそうだ。
「ボクらはショータくんが来てくれて非常にありがたいです。でも親御さんとしては、きっと心配なさってることも多いでしょう。何か気になることがあればいつでも――」
「いえ、とくに」
「へ……」
「……すみませんけど私まだ仕事中で、戻らないと」
「あ、そ……そうですよね。アポもとらずに突然お邪魔したのはこちらの落ち度ですから、お気遣いなく。失礼しました」
とくに実りのない会話がそこで終わり、コハルと二人してそそくさと退散した。
でもワカシは驚いていない。半裂家が難のある家庭らしいことはナギサから聞いていたし、いろんな意味で慣れてもいた。
(ホントどこかの誰かとよく似てるよ)
溜息ひとつでやり過ごせる班長と違い、コハルちゃんは神妙な顔だ。
帰りの車中でぽつりとこぼした。「ワタシ、ひどいことしちゃったんでしょうか」と。
バックミラー越しに窺えた彼女は、自分の手のひらを見つめている。あれは確かに痛そうなビンタだったし、指導方法としては前時代的だ、と言わざるを得ないけれど。
ワタシは肩をすくめて「だーいじょーぶ」と、なるべくゆるい声音で返した。
「ショータくんは賢い子だよ。コハルちゃんの言いたかったことはちゃんと伝わってるさ」
「……なんか今日のリーダー、妙にマトモで調子狂います」
「にゃはは」
朗らかに笑うものの、内心思う。
――それって裏を返すと、マトモぶらなきゃいけない事態が続いている、ということでもあるんですよ。困ったことにね。
更に悩ましいことに、ある種の非常事態は支部に戻っても終わらなかった。
戻るなりタケに呼び出されたかと思えば、固定電話の受話器を押し付けられ、恐るおそる出たところ悪い意味で聞き覚えのある声がしたのだ。
曰く『やぁ、ワカシ。もうすぐ着くから準備しといてくれるかい?』
「じょ……尉次叔父さん? 何の話です?」
『詳しいことは終波さんに聞いて。とにかく彼女――清川蛍さん、に会わせてもらうから。隠したりしないでくれよ?』
「はい!?」
まさか今からですか、と言いかけたところで一方的に切られ、虚しいビジートーンだけがワカシの鼓膜を打ち続けた。
背後で車の走行音がしていたあたり、今まさに向かっているところらしい。
いくらなんでも急すぎる。が、あちらは向こう数カ月の予定が詰まった忙しい身、わずかな時間も無駄にはできないし、突発的な変更には融通の利くほうが合わせろ……ということだろう。
ワカシはもう一度溜息を吐いて、タケを見た。女傑もややうんざりした顔だった。
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