十、寄せては砕ける波の音
――音念の群れの中に、それらとは違う黒がある。
千尋は「マジかよ……」と小声で笑った。ワカシが部下に増援要請を指示したのは聞いていたが、まさか彼女が来るなんて。
墨色のストールが舞う。それを留める銀細工のブローチが、闇の中で星のように瞬いた。
柔らかな踏み込みからの一閃――終波タケの斬撃は、まるで吸い込むように音念を消す。
軽やかな足運びを喩えるなら、そよ風やさざ波が相応しい。老齢を感じさせないどころか、ともすれば優美ですらある洗練された身体捌きは、武術というより舞踊を思わせる。
なびく白髪はさながら空をたゆたう綿雲。奔る刃は清けき月光となって、皓皓と闇夜を照らす。
美しくも無慈悲な剣舞は砕かれていく怪物たちの悲鳴すら伴奏に変えた。不快なはずの霊体破壊音さえ、あまりにその間隔が短いために、清水のせせらぎに聞こえるほどだ。
目に見えて音念の群れが減っていく。
もはや倒すなどという程度ではない。滅ぼしている。
ついつい見入ってしまいそうになるが、そういうわけにもいかない状況だ。自分も斬り続けなくては事態が収束しない。
祓念刀にはそれぞれ個性とも言うべき癖がある。だから区別するための銘がある。
千尋のそれは『磯撫』、西日本に伝わる妖怪の名に由来する。まさしく怪物のように音念どもを食い散らかすのがこれの本分だ。
「ッシ……!」
余計な声は控えつつ、気合を込めるために歯列から空気を吐き出す。
すでに体力は限界に近い。けれども弱音を吐いてなどいられない――背後から聞こえる、懐かしい斬撃の連音が、千尋を奮い立たせてくれる。
(好きな子の前で恰好悪いとこ見せられんわ)
振り向かずともわかる。何年も同じ道場で励みあってきた仲だ、たとえ音念の撒き散らす聞き苦しい雑音の中でだって、呼吸ひとつ取りこぼすものか。
だから千尋は残り少ない気力を振り絞り、祓念刀を振り抜いた。
一体でも彼女に纏わりつく悪い虫を減らすため。もちろん、そんな考えは無意味で非合理的であることは承知の上。
だって本当は少し、悔しい。助けにきてもらわねばならなかった自分の力不足が。
そしてこんな状況ですら、久しぶりに並んで刃を振るえることを嬉しがってしまう情けなさもろとも、斬り飛ばすほかにないのだから。
(ウチの鳴虎には指一本触らせへんで、バケモンども)
……。
増援を加えた五人がかりの奮戦により、十数分後には視界が晴れた。
戦闘終了を確認した瞬間、まずショータがその場に崩れ落ち、隣でワカシも片膝を衝く。千尋も大の字でひっくり返りたいのをなんとかこらえ、鳴虎の元にふらふらと歩み寄った。
「あ゙ぁ~……!」
「うひゃ!? ちょ、ちょっとぉ」
がばちょという効果音つきで鳴虎に覆いかぶさる。屋外とか人目とかどうでもいい、長時間の戦闘によってHPもMPも底を尽いたので回復アイテムを摂取する以外の選択肢がない。
「づっがれだァ……なんなん初日から……」
「あー、えっと、お疲れ様。わかったから退いてよ、重いんだけどぉ」
「いややぁ……急性めーこ不足の禁断症状につき再補給を要請しますぅ……」
「……もー、しょうがないわね。とっとと車乗りましょ」
こういうときだけは同性で良かったと思う。周りの視線はやや痛いけれど、そもそも男に生まれていたら、きっと触れることすら難しかった。
その代わり、彼女は決してこちらに振り向いてはくれない。永遠に。
別にそれで構わない。
情を交わす関係になることだけが恋愛ではないから。とくに千尋のような、一般的なラインから逸脱した――少なくとも世間にはそう捉えられている――性質の人間にとって、その『当たり前のゴール』はあまりに遠すぎる。
だから望みはひとつだけ。他の誰かに向けてでもいいから、ただ笑っていてほしい。
千尋たちがそんな具合でのろのろ隊車に向かっていると、逆方向から走ってきた人影とすれ違った。
残像の中に白いラビットリボンを見たと思う。そして数秒のち、背後からは。
「……ショーちゃん! 大丈夫!? 怪我はない!?」
「平気……です」
「そう――」
という短いやりとりを挟んで、パァン!――という乾いた破裂音が響きわたった。
思わず二人して振り向くと、片手を振りぬいた恰好のコハルの前で、ショータが尻もちをついている。薄桃色だった頬を痛々しいくらい紅く腫れ上がらせて。
横ではワカシが絶句している。
さすがにタケとナギサも遠巻きに事態を窺っているふうだ。二人して真顔なのでわかりにくいが。
「……言ったじゃない、ちゃんと周りとコミュニケーションを取らなくちゃダメだって……たとえリーダーがどんなにちゃらんぽらんで、頭のおかしな人に見えたって、本当にそのとおりの人なら班長に任命されるはずないでしょう……!」
「え、と……コハルちゃん、それってフォロー……なの、かな?」
「こっちには大人ぶるなとか言っておいて……勝手な行動して、周りに迷惑かけるなんて、それこそお子様のやることよ! いい加減にしなさい!!
……ほんとうに、無事でよかった……ッ」
すごい剣幕で叱ってから、そう言ってコハルはショータを抱き締めた。
少年はばつが悪そうに、けれど少しだけ口端を緩ませながら「……ごめんなさい」と呟いて、こっそりコハルの制服の裾を掴んでいる。抱き締め返すのは気恥ずかしい年頃らしい。
あっけにとられていたワカシもそれを見てふっと微笑み、ふたりの肩をぽんぽんと優しく叩いた。
よくわからないが向こうはまとまったらしいので、千尋たちも前に向き直る。
「ハハ。あの子、ちょいめーこに似とんな」
「え? あたし時雨や蛍をビンタしたことなんてないわよ。……たぶん。なかったはず」
「そーゆー意味とちゃうけど。てかそこ悩まんでほしかったなぁ」
「ほっぺぎゅーくらいはしたかも……」
「無駄に言い方かわいいな?」
けらけら笑いながら隊車のドアに手をかける。
千尋が二人を似ていると言ったのは、血縁でもなんでもない子どもを真剣に叱ったり抱き締めてやれるところだ。
当人たちはなんでもないふうに、当たり前のようにそうするけれど、実際は誰にでもできることじゃあないから。
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