九、諍う夏虫の叫び
一瞬意味がわからなくて、蛍は時雨の顔をぽかんと眺めていた。
聞き間違い、じゃない? 葬憶隊を辞めろ……だって?
なぜ? なんのために?
呆然とする蛍に、時雨は続ける。
「単に辞めただけじゃ危ねぇのは変わらんから、しばらく隠れろ。少なくともハナビが確実に駆除されるまで。んでそうなったら住む場所だけど、まあ、引っ越し先が決まるまでは寮にいればいいんじゃね? めー姉も追い出すまではしねーと思うし、最悪オレが終波総隊長に直談判すっから」
『……なんで?』
「何が。まさか辞めろって話? 当たり前じゃんか、おまえ命狙われてんだぞ」
『それは、そうだけど……しぐれちゃん、まきこんじゃったから、おこってる?』
「は? 違ぇよ。おまえのためだよ。そりゃ、まだあっちこっち痛ぇけど、怪我したのはオレが弱えからだ。……そうだよ。オレだって言いたかねーけど、他にどうしようもないだろ。
……オレじゃ弱すぎて、おまえを守ってやれねぇんだから」
そう言って、まだ包帯の取れない自身の腕を見つめていた。骨ばった長い指はすべて、悲しいほど力なく虚空に投げ出され、何も掴もうという気力がない。
まるでそこに、取りこぼされていく蛍の幻覚でも見ているみたいに。
ふいに時雨がこちらを見る。いつものように、蛍の唇を注視する。
それはこちらの話を聞いてくれる合図で、蛍にとっては長らく福音に等しかったけれど、今は。
……鼠色の小さな瞳が、薄ぼんやりと濁っているように思えてならなかった。
『わたし、まもってほしいなんて、たのんでない』
まるで逆だと、この心は叫ぶのに。
『まもってくれなくていいよ。わたし、つよくなるから。しぐれちゃんは、しんぱいしなくていいの』
「……無茶言うなよ。相手考えろよ、オレらじゃ手も足も出ねぇんだよ、こないだのでよくわかっただろ」
『たおせるくらい、つよくなればいいでしょ』
「そんなん無理だって……、つか、蛍はそんなに葬憶隊にこだわる必要ねーじゃんか。オレにくっついてきただけでさ……なんかもっと他にやりたいこととかねぇの?」
『ないよ。いまさら』
蛍はいくらか絶望的な心地で答えた。仮に別の仕事に憧れがあったとしても、自分にそれを望む権利なんて、あるはずがない。
――だって、中身は人間じゃないんだから。
何も知らないからそんなことが言える。怪物たちと戦うことが蛍の存在意義なのだから、それを取り上げられたら、なんのために生きているんだかわからない。
時雨や鳴虎と出逢ったから、人並みの暮らしに甘んじていられただけ。
その彼から突き放されてしまったら――本当の意味で、人間じゃなくなってしまう。
「んでそんな……」
『それはこっちのせりふ、わたしをよわいものあつかいしないでよ。なんでいっつもうえからめせんなの?』
「はぁ……つか実際弱ぇだろ、オレもおまえも星まだ二ツじゃん」
『そういういみじゃない!』
「じゃあなんだよ、ワケわからんこと言ってんのはそっちだろ! 心配なんかするに決まってんだろうが、オレはただ、とにかく……あぁクソ!」
売り言葉に買い言葉で、乱雑な音がさんざんに飛び交ったあと。
「……あいつが怖くねぇのかよ!」
悲鳴のような時雨の問いに。
『ハナビなんかこわくない。……あんなやつ、わたしがころしてやる』
餓えた獣のような獰猛な心で、蛍はそう返した。まったき本心から。
今のこの、ひどく追い詰められて混乱している時雨だって、もとを辿ればハナビのせいじゃないか。あいつが現れたせいですべてがめちゃくちゃになったんだ。
ハナビさえいなければ、蛍は自分自身のおぞましい正体を知らずに済んだ。今までどおり葬憶隊で変わらない毎日を送れたのに。
……冷静さを欠いているのは蛍も同じだったけれど、煮え立った頭では顧みられない。
言葉選びがあまりに不味かった。蛍の乱暴すぎる宣言を、時雨は呆然としながら聞いて、それから、にわかに立ち上がる。
何も言わずに……何を言えばいいかわからなくなってしまったように、沈黙を守ったまま、ばたばた音を立てて逃げるように病室から出ていった。
蛍も追いかけなかった。
腹の底で滾っていた苛立ちは、時間が経つにつれて勢いを失い、次第にぬるい後悔へと変わっていく。
喧嘩なんていつぶりだろう。小さいころはよくくだらないことで揉めて、そのたび二人揃ってタケに諌められたり、寮に移ってからは鳴虎に叱られたりしてきたけれど。
思えば蛍から謝ったことは少ない。いつも時雨が先に折れるから。
さっき上から目線だなんだと罵ってしまったけれど、彼のある種の気遣いにずっと甘えてきたのも事実。文句を言える立場ではなかったかもしれない。
(でも、辞めろなんて……)
溜息と一緒に祓念刀を抱き締めながら、蛍は呟いた。
『しぐれちゃんのばか』
ただ一緒に居たいだけなのに。
それとも、そう思っているのは蛍だけなんだろうか。
*♪*
蛍の説得に失敗した時雨は、絶望的な気分で階段を上っていた。
病室に戻る気がしない。何も考えられなくて、足の向くままに任せている。
しかし最後は『立ち入り禁止』の看板を提げたバリケードに行く手を阻まれた。それを無視して乗り越え、奥にある扉に手をかけても、ドアノブはびくともしない。
……当たり前だ。屋上に簡単に出られるわけがない。仕方なく、階段によろよろと腰を降ろした。
どうしたらいい。どうしたら、蛍を危険から遠ざけられる。
だいたいハナビが倒されるのはいつだ。いつになったら時雨はこのどうしようもない不安から解放されるのだ。
明日? 明後日?
それとも何年も先?
もし蛍が殺されたら自分も後を追うしかない、生きている理由がなくなるのだから。それくらいなら先に自ら命を絶つほうがいくらかマシな気がする。
また緑色の扉がある。固く冷たいそれ、どんなに殴っても叩いても壊せないその壁が、時雨に己の無力さを教えてくれる。
次第に消えていく両親の声。きっと蛍の断末魔の悲鳴は聞こえさえしない。
そうして残るのはただ、眼を背けたくなるおぞましい血だまりと、耳を掻きむしる凶悪な静寂だけ――。
「……あぁ、……クソ、……ッ」
ただ呻くしかできなかった。
頭を掻き毟りながら、胸中に閃くひとつの声。
――死にたく、ない。
それはゆっくりと形を成し、時雨の背後から煙のように立ち昇って、彼を包もうとしていた。
→