一、朝の二幕
頭が割れそうな頭痛に悶絶しながら目を覚ます。
「あ゛ぁァ……」と人間のものとは思えない呻き声を上げながら、芋虫のような鈍重な動きでベッドから這い出た鳴虎は、そこでやっと寝ていたのが寮の自室ではないことに気が付いた。
見覚えのある天井。懐かしい元恋人の匂いが染みついた枕と布団カバー。
自分は部屋着姿で、着ていたはずの制服はというと、クローゼットの扉にハンガーで吊るされていた。
ベッドサイドにはバレッタがきちんとクリップを止めた状態で置かれている。
「な……んで……、ゔッ」
痛みに思考が飛びそうになりながら、ふらふらと寝室を出る。
家主、つまり匡辰の姿はない。時計を見ると六時前で、何ごともなければ帰り支度をしているころだろうか。
台所のテーブルにはご丁寧に痛み止めや胃薬が一揃い。お見通しってか、と苦笑いしながら、鳴虎も迷わず戸棚からコップを取り出し、浄水器つきの水差しを取った。
付き合っていたころ何度も来ているから、ものの場所はおおよそわかっている。
向こうもそれを知っているから置手紙の類はない。
時雨たちが入院中である意味良かったかもしれないと思いつつ、冷蔵庫を漁って勝手に朝食を用意した。……なんとなく、二人分。
全く覚えていないけれども、彼の家で寝ていたってことは、恐らく何がしかの迷惑をかけたのであろうから。
頭痛を堪えながら作ったので形のひどい卵焼きを齧りながら、一応端末をチェックする。総隊長から朝一で招集が掛けられていた。
……それまでに頭痛が収まることを祈ろう。ちょっと飲みすぎた。
(だからってなんで匡辰んち……たぶんナギサ先輩かワカシが一枚噛んでるんだろうけど)
余計なことをしてくれた。だいたい匡辰だって断ればいいものを。
それともまさか、と急にそわっとして身体をあちこち確かめてしまったけれど、とくに何かされた痕跡はない。……そういうことをする人では、ないとも思う。
いくら元カノだからって、酔って前後不覚の女に無闇に触ったりなんて、彼がするはずない。
でも……なぜだろう。うっすらと心地よい感触を覚えている気がするのは。
(……枕のせいかな。なんか夢の中でキスしてた気がする……。欲求不満? やだもう)
そのあと、勝手知ったるなんとやらで洗濯機やシャワーを借りて身支度を整えた。
出かける時間になっても匡辰は帰ってこなかったので、これまた無断になるが仕方なく、靴箱の上のキーケースを開ける。しかし昔あげたお菓子の空き缶を未だに使っているとは。
久しぶりに握った合鍵が、なぜだか手のひらに刺さって痛い気がした。
*♪*
カーテンの隙間から朝の光が差し込んで、眩しさに瞬きをする。端末を見たらちょうど目覚ましのアラームが鳴る寸前で、もはや不要なそれを停止しようかと指を伸ばしかけたが、小さな寝息にぴたりと止めた。
ワカシはのそりと身を起こして辺りを見回す。……わかっちゃいたが室内はまあひどい荒れようだ、寝坊しなくてよかった。
「ナギサさん。おはようございます、朝ですよ」
「ん……、……ん」
「今朝は忙しいので、なんとか自力で起きてくださいね」
隣の彼女は低血圧気味で寝起きが悪い。無理に起こして機嫌最悪になられるほうが面倒なので、自然に目覚めるまで放置して、その間にワカシが支度をすることにしている。
だいたい普段からロクに自炊しない人なので、朝食を任せたところで期待できないし。彼女の家の冷蔵庫には基本的に酒しか入っておらず、あとはつまみ用の惣菜程度で、調味料すらほぼ買い置きがない。
ナギサもそれがわかっているから、泊まるときはいつもワカシの部屋だ。
脱ぎ散らかされた服を拾って洗濯機に放り込み、炊飯器に米をセットしてスピード炊飯モードに設定、スイッチオン。おかずは冷凍しておいた焼き魚と煮物を温め直して、あとはインスタント味噌汁と納豆でも付ければ上出来だろう。
幸いナギサは食べものに文句を言わない。酒に合う合わない以外では。
空いた時間で制服にアイロンをかけていたら、やっとナギサが起きてきた。
服がないものだからワカシのパジャマを借りたようだ。身長では負けているが幸い彼女は超がつく細身なので、ギリギリで裾が腰元を覆いきれている。
それでもかなりセクシーな絵面です。教育上アウトだと思います。
ナギサはテーブルの上を一瞥して呟いた。
「……前も和風だった気がする。あなた和食好きなの?」
「あぁ……いえ、萩森先輩に教わったからです。洋風が良ければ次回そうしますよ。パン焼いて、ソーセージ茹でて、オムレツにハートマークとか描いちゃう」
「好きにしろ」
呆れたようなもの言いだが、口角が上がっている。その直後、レンジと炊飯器が上手いこと続けざまに鳴って、奇妙なハーモニーを奏でた。
アイロンがけもひと段落したし、食事にしましょう。
実家ではすべて家政婦任せだった。家電もまともに触ったことがなかった箱入りでも、今ではこうしてひと通りの家事がこなせる。
独り暮らしを始めた当初はさんざん失敗したし、使用人たちが入れ替わり立ち代わりようすを見に来て、それこそ食事の差し入れやら手伝いやらを申し出てくれたものだ。気持ちはありがたかったけれど、自立のためだと心を鬼にして断った。
経営の勉強をさせる以外では息子を放りがちだった両親より、彼らのほうが家族のような距離感だったと思う。
ナギサを見ていると、彼女にはそういう存在がいなかったのだろうか、と思う。あまり詳しくは教えてもらっていないけれど。
しばらく終波総隊長の家で世話になっていたことがあった、とだけ聞いている。
「……ふふ」
「何笑ってるの気色悪い」
「ナギサさんがよく食べてくれるので。ていうか細身のわりにけっこう量いけますよね」
「そうかもね……」
「ボクらは身体が資本なんだから、ホント普段からちゃんと食べてくださいよ。放っておくとお酒しか飲まないんだから……朝抜くのもダメです。しっかり一日三食、栄養バランスを考えて――」
「母親かよ」
吐き捨てるような、苦々しげな言い方に既視感を覚え、ワカシは箸を止めた。
ちょうどいい機会かもしれない。どうせ近々聞こうと思っていたことだ。
「――そういえば、ショータくんのことなんですが」
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