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二十一、天使は破氷上を舞う②

 彼女は理解していただろうか。自分の投げた言葉がどんな形をしていたか、それが如何に鋭く尖って、相手を切り刻んでいたのかを。

 もしかしたら結婚生活自体、初めから破綻していたのかもしれない。就職のさい有名企業からのオファーがあったのは事実で、妻は熱心にそちらを薦めてきたのだけれど、男は頑なに無視したのだから。

 意義ある仕事だと信じて選んだのだから、いつかは妻もわかってくれると思っていた。



 気が付けば男は床に伏していた。シャツの袖口が真っ赤に染まり、左手の結婚指輪まで色が変わってしまっている。

 比例して妻からは熱がどんどん抜けていくのを感じた。ぞっとして、掴んでいた()()から思わず手を離すと、鈍重な音を立てて床に転がる。

 虚ろな瞳が男を見上げた。まるで生気がなく、硝子玉のようだった。


 赤紫に染まった首。どうにもならないほどはっきりと残った手の痕が、誤魔化しようもないほど自身のそれと一致する。遅れてきた鋭痛が血の出所をも知らせてくれた。

 床に散らばった陶器の破片もまた、妻の頭髪と、赤いものにまみれている。その一部が己の手にも突き刺さっていた。


「……あ」


 ようやく惨状に気が付いた男の視界が、一瞬黒く明滅する。


「あ、あ……あぁッ」


 震える手で携帯端末を取り出したけれど指が動かない。なんとかロックを解除したところで、混乱しきった頭では、まず誰を呼ぶべきかも判然としなかった。

 救急車? それとも警察? 両方か?

 自分もまがりなりに葬憶隊(ミューター)職員なら、医療チームを頼るべきか?


 救命したところで間に合うだろうか?――職業柄、なまじ知識が僅かながらあるゆえに、ますます判断が鈍る。

 脈は完全に止まって、もう何分経つかもわからない。仮になんとか心肺蘇生できたとしても、良くて脳に障害が残り、一生寝たきりになるだけではないのか。


 そしてどのみち自分は警察に行くことになる……。


「――あらあら、静かになっちゃって」


 突然どこからともなく降ってきたその声に、男は愕然として顔を上げる。


 妻と二人暮らしの部屋にいるはずのない三人目。いつの間にかテーブルの前に座って、冷めきったシチューを、子どものようにスプーンで掻きまわしている。

 ()()は男の視線に気づくとにっこり笑って、椅子から立った。


 血痕の散る床に降り立っても少しの雑色も混じらないそれは、愛らしい顔立ちをした、十代半ばほどの少女である。


 けれども男はその正体を知っている。もちろん、いち葬憶隊職員としては重々承知している。

 この街に潜む、ヒトを模した恐るべき闇の存在を。そいつは男とも面識のある一人の少女とそっくりな(なり)をしているという。

 今、目の前にいるのはまさにそれだった。


 さながら夏の満月の、ぱっちりと大きな金色の瞳。そのほかはひたすらに、白。

 楚々として品のあるワンピースの裾と、絹糸のごとくなめらかな長い白髪が、風もないのにふわりと宙にたなびく。その様はあたかも天使の翼がはためくかのようだ。

 ほっそりした手足にはもちろん傷ひとつない。やや華奢な肉づきながら、これから大人の女性になろうという過渡期の少女特有の、繊細で優美な曲線を描いている。


 見た目に惑わされてはいけない。どんなに美しくても、笑いかけてくれても、これは人ではないのだから。

 わかっていても。いや、わかっているからこそ。


「あーぁ、ちょっと残念。ここお気に入りだったのよね、彼女、毎晩たっくさん大声出してくれてたもの。ひどい言葉ばっかりだったけど、私は()にはあんまりこだわりないから」


 少女は微笑んで、悪妻の血に穢れた男のシャツの胸をそっと撫でる。


「でも、今はあなたの()()から美味しそうな音がするわね」


 その瞬間背筋を駆けのぼった強烈な感情を、何と評すればいいだろう。

 恐怖――間違いなく、この少女は簡単に、躊躇もなく男を殺せるはずだ。それほど凶悪な化け物であることはわかっているし、男はなんら抵抗する手段を持たない。

 奥歯ががちがち鳴った、けれど、単なる死の恐怖だけでは説明がつかなかった。


 少女が触れたところが熱い。まるで妻に初めて触れられたあの日のように。

 心臓が煩いほど高鳴ってとめどなく血を吐いている。足許に転がる妻の亡骸に責められているようにも感じて、その甘く苦い居心地の悪さは、自慰行為のあとの罪悪感に似ていた。




 *♪*




 肝心のところで汽笛の音にかき消される。端末片手にぶらついていた女は「はぁ? 今なんつった?」とやや乱雑な口調で問い返した。


 真上に広がる昼下がりの空はよく晴れて、青々と広がる世界を白いカモメが我が物顔で舞っている。地面では日向で気持ちよさそうに寝そべる野良猫たち。

 どちらも気のいい漁師からのおこぼれを狙う腹だ。

 中には女の提げたビニール袋の『港の味! 海鮮お好み焼き』の印字を、物欲しげに見上げているのも居る。ご丁寧にすりすり攻撃つき。


『――せやから中部はんの要請です。前に聞いた話なぁ、どうも思たよりマズいことンなったはるらしいんよ。したら、あんた元々あっちの人間やし、土地勘のない(モン)送るよりええ思いましてな』

「あ~、そういうこと」

『断ってもろてもええですよ。別に御指名ちゅうわけやありまへん』

「待て待て、まさかやろ」


 女はにたりと笑いながらおもむろに屈んだ。

 ここいらの猫は普段から餌付けされているため、急に手を伸ばしてもとくに警戒されない。なんなら撫でられて喉をごろごろ鳴らしているくらいだ。

 それを愛おしげに眺めながら女は続ける――ええに決まっとるわ、行ったる。


「ほな詳細はチャットで」の一言に頷いて、通話終了をタップしたあと、彼女は野良猫に向かって話しかけた。


「やっ……とあんのクソ馬鹿野郎ぶっ飛ばしに行けんねんで。そんなん断るわけないやんなぁ」


 もちろん猫は返事なんかしない。涼しい顔であくびを一つしただけで、あとは潮風にひげをなびかせていた。



 → next chapter.

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