二十、天使は破氷上を舞う①
男はほうきとちりとりを手に、慣れた手つきで硝子の破片を片づけていた。
シャツの袖口が破れて紅く染まっている。けれどもはや妻の癇癪は珍しくもないし、怪我をするのだって初めてではないから、焦りや動揺はほとんどない。
淡々と繰り返されてきたそれは、半ば彼の日常と化していた。
寝室からは泣き声が響いている。妻は常に被害者で、その想いを汲み取ってやらない夫こそが邪悪で冷酷な加害者なのだ。
少なくとも彼女はそう思って、扉に鍵をかけている。
掃き取り終えたものをザラザラと紙袋の中に閉じ込めてから、男は戸を叩いて声を掛けた。
「片づけ、終わったよ。夕飯はどうす――」
「要らない!」
「……そう。落ち着いたら出ておいで」
にべもない返事に落胆することもなくなった。
似たような問答を繰り返している。頭に浮かぶのは『この日々がいつまで続くのだろう』『妻はいつになったらわかってくれるだろう』の二つだけ。
これまで投げつけられてきた言葉が耳の奥に反響している――こんなはずじゃなかったのに。
聞くたびに内心で頷いていた。――ぼくもそう思うよ。
知人の紹介で出逢ったとき、震える声で交際を申し込んだとき、プロポーズに頷いてくれたとき、チャペルで愛を誓ったとき、こんな未来は描かなかった。二人は幸せになれると、お互い信じていた。
何がいけなかったのだろう? 思い浮かぶ理由、すなわち今まで受けた罵倒の数々は、すべてどうにもならないことばかり。
男の勤務シフトがいささか不規則であること。やや温室育ちの妻の感覚からすると、待遇や給料面も満足のいく内容ではないらしい。彼女曰くそれらのせいで子どもも作れないのだという。
たしかに男はいわゆる花形の職業ではない。住まいも二人暮らしなら充分だが、人数が増えたら手狭になるだろう。
もともと妻は世間の眼を気にする性質だ。それに加えて、孫を待ちわびる義両親からの無邪気なプレッシャーが、彼女を苛んでいるという。
妻の言い分も理解できる。だから上司に頼んで在宅勤務を取り入れ、寄り添うための時間を増やした。家事もするようになった。
男なりに手を尽くしたが、それでも妻は笑ってくれない。やれ掃除の仕方が気に入らない、料理の味が濃い、いつも傍に居られたら鬱陶しい……。
「……こんなはずじゃ、なかったよな」
独りだけの侘しい食事を終え、食器を洗いながらボヤいていたら、背後で扉が開いた。振り向くかどうか逡巡したが――無視したと泣かれるか、いちいち監視するなと罵られるか、どちらに転ぶかは妻の気分次第――なるべく軽く、視線だけ放ることにした。
セッティングされた食器の前に座ったのを見て、食べてくれる気になったのかと安堵する。
「ごはん温めるよ」
「……いい。それより、冷静に話し合いましょ」
どの口が、と思いかけて、ぐっと堪えた。
水を止めて身体ごと妻の方を向く。冷え切った茶碗を見つめながら、彼女はとうとう、最後の切り札を投げつけてきた。
「別れたいの」
「……え? いや……今、冷静に話し合うって言ったばかりじゃないか」
「だから冷静に考えて、それでもう無理だってわかったのよ。私、もうあなたと一緒にいたくない。限界よ」
「なんで……」
妻はそこでやっと顔を上げる。けれどそれは福音ではない。
以前はキラキラ輝いて幾度も彼を癒した大きな瞳は、今はどんより曇った鏡となって、絶望する男の顔を映し出していた。
ああ、友人に彼女を紹介したときは『美人な奥さんで羨ましい』と言われたっけ。仲人になってくれた大学の恩師からは『秀才と美女で理想のカップル』なんて誉めそやされたし、思えば初めて出逢ったときも、一目見た瞬間に胸を躍らせたのはこちらだった。
背伸びをしてやっと届く高嶺の花。だから少しワガママで、何かにつけてこちらを振り回すところも、かつては彼女の魅力のひとつだった。
熱心に肌や髪のケアをしているようだから、今でも容貌は整っている。けれど笑顔が剥げ落ち、眉間に醜い皺を刻んだその女を、もはや美しいとは思えなかった。
そういえば、彼女が最後に笑ったのはいつだったろうか。
「『なんで』? こっちが言いたいわよ、なんであんなに頼んだのに転職してくれないの!?」
「それは、……言っただろ。すごくやりがいのある仕事で」
「似たような仕事なんて他にいくらでもあるでしょ!? なんでよりによって、……私、いつも周りに嘘吐いてきたのよ、恥ずかしくて! もう、もう耐えられない……ッ!」
「待って、どういうことだ、嘘って……何もそこまで嫌うことないだろ」
「私は大っ嫌いなの! あなたも葬憶隊も! はっきり言ってバカよ、あなたの学歴ならもっと大きな企業にだって就職できるし、そう思ったから結婚したのに! お給料だって今の倍はもらえたでしょうね!」
好き勝手にまくし立てられて、もはや怒る気にもならない。男は独り語ちるように言った。
「……なんだよ、結局は金か」
「当たり前でしょう!? 先立つものがなくちゃ何にもならないわよ!」
妻は怒りのままに茶碗を掴み、夫に投げつける。それが運悪く眼窩の上に直撃したらしい。
痛みに眼がくらんだ直後、冷めた白飯が顔から肩にかけてべっとり張り付いていて、茶碗そのものは床に落ちた。
陶器が割れた瞬間、男の中でも別の何かが砕ける音がしたような気がした。
もうダメだ。
ずっと耐えてきたけれど、もう限界だ。
この女は妻じゃない。愛した人は、愛してくれたはずだった人は、もうどこにもいない。
目の前にいるのが彼女の皮を被った化け物だとしか思えない。
「明日、離婚届をもらってくるから。もう言い訳なんて聞かないわよ。言っとくけど、お父さんに頼んで腕のいい弁護士を付けてもらうから、せいぜい慰謝料の準備でもしてちょうだい」
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