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十九、虎口を塞ぐ

 突然のキスを鳴虎は拒まなかった。一瞬驚いたものの、細い手はすがるようにして匡辰(まさとき)の隊服の襟を掴む。

 そのまま体重を預けられ、二度目はむしろ彼女から仕掛けられた。

 アルコールに汗が混ざった、ぞっとするような香りに耽溺しながら、匡辰は夢中で彼女の舌を食む。


 静寂の中に滴る音。時折漏れる吐息と、舌先に残った油の味が甘い。

 柔らかな肢体の感触と温もり。薄眼を開けば、触れそうなほど近くで睫毛が揺れる。


 およそ三ヵ月ぶりの刺激の波が脳を焙った。アルコールに似たそれで、こちらまで酔いそうになる。

 布団に散らばる茶髪の上に己の影が落ちた。両腕の下に彼女を閉じ込めながら、脳裏にいくつもの言い訳が浮かぶ――。


「……っだめだ」


 渾身の力で誘惑に抗い、匡辰はかぶりを振って身を起こした。


 鳴虎はまだ服の裾を掴んだまま、不思議そうにこちらを見上げる。

 まるい頬を上気させて、悩ましげに眉根を寄せているが、涙に濡れた双眸は微妙に焦点が合っていない。今なお酩酊状態そのものの姿に、匡辰は奥歯を噛み締める。

 今の彼女は正常な判断ができない。それを知りながら迫ってしまった、己の浅ましさが呪わしかった。


「ごめん……君が悪いんじゃない。僕がどうしようもないんだ……」

「わかんない……、ねぇ、……しないの?」

「だめだよ。もう僕らはそういう関係じゃない」


 布団をひっぱりあげて鳴虎を包む。身体を冷やさないように、……匡辰がこれ以上触れないように。


「……行かないと。鳴虎も寝るんだ、……朝にはきっと全部忘れてる。君はいつもそうだからな」

「やだ、……いかないで……」

「ごめん」

「謝ってばっか……。あたし、そんなに鬱陶しい……?」

「違うよ」


 また瞼が下がり出したものの、幼い子のようにぐずっている鳴虎を宥めるために、髪や頬を優しく撫でた。

 願わくば彼女が穏やかな夢が見られるように。そこに自分のどす黒い感情など入る余地はないのだと、努めて己に言い聞かせながら。


 言ったとおり、こうして泥酔した鳴虎にはたいてい記憶が残らない。付き合っていたころはそれでよく喧嘩もした。

 寡黙な匡辰と違って鳴虎は交友関係が広く、誘いを受けることも多いが、そのたびに前後を失われては困る。単純に心配だし、寮で待つ時雨たちの迷惑にもなる。

 だから節度を守れ、量を考えろと散々言って、少なくとも匡辰の眼があるうちは大人しくしていた。


 今のこの有様は自分が蒔いた種だ。匡辰が不誠実な別れ方をしたから。

 婚約を解消する理由をきちんと伝えず、――わざと遺恨が残るように仕向けたせいで。


「……僕は卑怯者だ。君を幸せにできるはずがない」


 寝息を立て始めたのを確認して立ち上がる。

 床に落ちていた衣類を拾い、軽く畳んでベッドの端に置いた。たったそれだけの作業ですら己を制するのに苦労する――それほど地獄のような三ヵ月間だった。

 それを、この先も続けていかねばならない。少なくとも劣情が消え失せるまで。


「――」


 部屋を出る直前、思わず振り返り見てしまった寝顔に向けて、小さく呟く。

 口に出してすぐ、言わなければよかったと思った。たとえ鳴虎が聞いていなくても。


 ゆえに匡辰は、逃げるように扉を閉めた。




 *♪*




 鳴虎が覚えているかぎり、お互いの第一印象はあまりよくはなかった。

 こちらは『なんかヒョロっとして頼りないな、この人ちゃんと戦えるの?』と思ったし、匡辰も『あまり真面目に見えない。この仕事の重要性を理解しているだろうか』と訝っていたらしい。


 通った道場が違ったので、同じ班に配属された日が初対面。真面目で堅物の彼と、明るく奔放な鳴虎は、周りからも早い段階で凸凹コンビとして認知された。


 毎日のように一緒にいれば見方も変わる。気がつけば、匡辰は誰よりも頼りになるパートナーになっていた。

 初めて身の上話をしたときも、彼なら受け止めてくれると思えたから、打ち明けたのだ。


 いわゆる育児放棄をされて親戚に引き取られた。彼らは優しかったけれど、親については身内の恥と思っているのが伝わってきたから、せめて娘の自分は迷惑をかけるまいと気を遣って生きてきた。


 早く自立したかったから最短で就労できる葬憶隊を志した。特殊学生労働法が適用される職業なら、正直なんでもよかった。

 でも、もしかしたら少しだけ、人の役に立つ仕事を望んでいたかもしれない。

 それなら育ててくれた家の人たちにも、きっと恥だと思われずに済むだろうから。


「くだらない話でしょ」と笑って茶化す。同情を買うために話したわけではなかったから。

 そんな鳴虎の眼をまっすぐ見つめて、匡辰は「……今まで君を誤解していた。すまなかった」と謝ってきた。


「や、そういうのいいから。それより下の名前で呼んでよ。苗字ってよそよそしくて、あんまり好きじゃないのよね」

「わかった。……正直慣れないが、努力しよう」

「ふふ、椿吹(つばき)くんホントいちいち堅苦しすぎ。……あ、ねえ、あたしも下の名前で呼んでいい?」

「……、うん。構わない」


 眼鏡の奥の、いつも鋭く(ノイズ)を見据えている瞳は、鳴虎に向けられるときは優しい色をしていた。


 なんとなく惹かれ合いつつも一線を越えるきっかけがない。曖昧で心地よい日々を終わらせたのは、第三者の一言だった。

 同期で、今は他の支部に出向中の友人が、当時はまだ中部にいた。三人で夕飯を食べていたとき、彼女が何気なく「もう付き合ってると思ってた」とからかってきたのだ。

 それで彼が満更でもなさそうに見えたから、思い切って帰り道の途中で言った。「いっそ本当に付き合っちゃおうか」と。


「そういう冗談はどうかと思う……もし僕が本気にしたらどうするんだ」

「冗談、……でも、ないんだけど。……ダメ?」

「……いや、その」


 今でもよく覚えている。匡辰は顔を真っ赤にしながら「僕は」と小さな声で言いかけて、立ち止まった。

 つられて一緒に足を止めた鳴虎の手を握り込み、震えながら続けて曰く。


「君が、その気なら……断る理由は……ない、です……」


 それがあんまりくすぐったくて、鳴虎は声を出して笑った。



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