十八、捕食の関係
「あなたは自分で歩きなさい。もう担いであげられる体重じゃないんだから」
「う~……それならお酒混ぜたりしないでくださいよぉ……」
繰り返しになるがワカシは酒に強くない。だからジュースと大差ないような度数の低いチューハイやソーダ割が精一杯なのに、ちょっと目を離した隙にナギサがキツい蒸留酒を混入していたらしく、気づけば目が回っていた。
普通にそれ犯罪なのではと思いながら、細い肩を借りてふらふら歩く。額を撫でる夜風が少し冷たい――。
「素面だと逃げるだろ」
ふいに聞こえた呟きにぎくりと強張る。睨め下ろす瞳は猛禽のように鋭く尖っていた。
別に怖いわけじゃない。ナギサを恐ろしく思ったことは……ないわけではないが、今はそれとは意味合いが異なる。
どちらかというと、ワカシはこの感傷めいた想いを、悲哀と定義づけている。
初めて出逢ったときから、とても哀しい人だと感じていた。だからこそワカシは彼女に惹かれたのだと思う。
ナギサはこの顔の傷を見ても顔色ひとつ変えなかった。誰もが絶望のただ中にいる幼い御曹司を憐み、胸を痛めて寄り添おうとしてきた中で、彼女だけは初めから痛みの内側にいた。
最初はワカシにもその理由がわからなかった。子どもだったから。
初めて愛を告白したとき、彼女は呆れて『そう思い込んでいるだけでしょう』と言いながら、そっと触れるだけのキスをした。その程度で赤面して慌てふためいた初心な少年をからかって、さらにこう続けた――『大人になっても気が変わらなかったら考えてあげる』。
それが罠だったと気付いたのは、後になってから。
十八歳、つまり法的に大人と見做される歳になったワカシに、彼女がしたことは。
「……ナギサさん」
「嫌なの?」
「ナギサさんがじゃ、ないですよ。……でも、こういうのは、好きじゃないです」
鍵穴にキーを通す。逡巡する手にひと回り細くて白いそれが絡みついた。
耳元にぼうっとアルコールの香りが吹き込まれて、それだけでまた眼が回りそうになる。
「不健全、って? ……そんなこと言える立場だった?」
「他にも……気晴らしの方法なんて、いくらでもあるじゃないですか……」
「そうかもね。でも」
ドアノブを回す音が夜の静寂を掻き回し、薄暗い玄関に一瞬だけ外の街灯が差し込んだあと、また暗転した。手探りで明かりをつけようとする手を掴み取られる。
彼女は闇の中にいて、そこから出るつもりはないと言うように。
「私はこれしか知らない。……それでもいいと言ったのは、あなた」
このままキスがしたいなら光は要らない。無遠慮な照明は、傷や、それよりもっと醜いものを浮かび上がらせてしまうだけ。
暗がりに音だけで廊下に荷物を下ろしていく。鞄、祓念刀、上着、ベルト、シャツ、それから思い煩うこと、すべて。
一緒に脱ぎ捨てられた自尊心を踏みつけにして、毒蛇は優しい声音で囁く。
「おいで。……何も考えられなくしてあげる」
扉を開く。カーテンの隙間から漏れた外の光を、薄縹の瞳がわずかに吸って煌めいた。
六年前、狡猾なキスに中てられて悪夢から醒めないまま、変わらぬ愛を報告した十八の愚かな少年を、ナギサは徹底的に壊した。
そのとき囁かれた言葉は毒になって、ワカシの脳髄に染み渡っている。
『世間知らずのお坊ちゃんに教えてあげる。……私みたいな悪い大人はな、てめえの人生で一番の“最悪”を、自分より弱い相手に転写すんだよ』
*♪*
マンションに到着しても鳴虎は起きなかった。仕方がないので誰もいないことを祈りながら、抱きかかえてエレベーターに乗る。
筐体の正面に設置されている鏡に映った己の顔を見ていられなくて、匡辰はひたすら階数表示を睨んでいた。
耳元で「ん~」とか唸られるのも心臓によくない。
部屋につくなり、ひとまず彼女をベッドに下ろし、台所へ。冷蔵庫の中身をざっと見て、食べる時間がない場合を想定し、汁気の少ない惣菜を白米で包んで握り飯風にする。
コップに水を汲んで寝室に戻ると、ようやく鳴虎は身を起こしていた。顔はまだ寝惚けた風情だったが。
「ほら、水だ。気分は? 吐きそうならトイレに……」
「だいじょぶ……、……ねえ、あたし、なんでここいるんだっけ」
「それは……まあ簡単に言えば、酔っ払いだからだ」
「ふーん」
空になったコップを受け取ってベッドサイドに置く。鳴虎はいやに冷静な声で「皺になっちゃう」と言いながら、おもむろに制服を脱ぎ始めた。
仕方がないのでキャビネットから彼女がかつて忘れていった部屋着を取り出す。まだ幾つかそういうものが残っているのだ。別にこういう事態に備えていたわけではないが。
ただ返しそびれていただけ。……そういうことにしておく。
付き合っていた頃に何度も見たとはいえ、平然と下着姿になられるのは少し戸惑う。それでコップを片づけるという名目で一旦その場を離れた。
自分も水を飲んだほうがいい。それもなるべく脳に刺さるような氷水を。
戻ると鳴虎は中途半端に部屋着を着かけた状態でごろごろしていた。もはや意味をなさなくなりつつある額のバレッタを外してやると、降りてきた前髪を鬱陶しそうにする。
「ちゃんと着ないと風邪引くぞ。そうなっても、もう僕は看病してやれないんだから」
「したそうに言うよねぇ。……自分からフッたくせにさぁ」
「ごめん」
「なんで?」
はっとした瞬間に袖を引かれた。特に逆らわず、慣性に従って彼女の隣に腰を下ろす。
スプリングが呻いて鳴虎を沈んだ側に倒れさせた――そういうことにしたかったのだろう。受け止めた両肩は震えていて、またじくじく潤んだ両目が匡辰を見上げていた。
「ねえ、あたし、何かダメだった……? 匡辰に嫌われるようなことした?」
「ッ……違うよ」
「じゃあなんでよ? 結婚したくないって思ったんでしょ?」
「そうじゃない、……そういうことじゃ、ないんだ」
「……わかんないわよそれじゃあ……」
すでに腫れてぼろぼろになっていた頬の上を、透明な雫が落ちる。それを見て匡辰の胸は確かに痛んだ。ベッドのスプリングと同じようにぎいぎい音を立てながら。
――それだけならまだ良かった。
胸痛と同じほどの熱を込み上げさせている、別の感情さえなければ。
「……ッ、ごめん」
耐えきれずに眼鏡を外す。そうして、鳴虎の頬を指先で拭ってから、奪うように彼女に口づけた。
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