八、解き放たれる
風が唸る。まるで誰かが大声で嘆いているかのように。
ああでもきっと、自分のために泣いてくれる人なんていないだろう。
それよりもたくさんの罵声をもらった。嘲笑をもらった。
おまえなんて生きていても無駄だと、いなくなってくれたほうがいいと、さっさと死んでくれと嗤われた。数えるのも忘れた痛みたちとともに。
だからこれは、――当然の結末。
無数の醜い言葉と、聞き苦しい音を食べて肥え太り、醜く育った怪物は。
「……楽にしてあげましょ。辛かったでしょう……でももう大丈夫よ、私がいるから」
「そうだよね。……ありがとう、ハナビちゃん」
わたしは、――わたしを、解放してあげた。
さようなら。嫌われ者で独りぼっちのわたし。
*♪*
時雨は動けないので、代わりに蛍が彼の病室に行く。
けれど彼は具合でも悪いみたいに黙りだ。理由はわかっているから蛍も何も言わないで、ただ横に座っているだけ。
そんな二人をエッサイくんも少し心配そうに眺めている。
さて、そこへ新たな訪問者が現れた。
「よ。……なんだお前ら、揃って暗い顔してんなよ」
「あ、モモくん。昼間に来てくれるなんて珍しいですね」
「今日だけ昼勤。一応間に一日挟んじゃいるが、身体が追い付かねぇで眠いわ。ほんで班長は会議だってのは聞いたか?」
「いえ、初耳です……空蝉くんたちは知ってました?」
蛍はふるふる首を振る。時雨は答えない。その光景にモモスケくんはぞっとした表情で「……おいおい。天変地異の前触れか?」とぼやいた。
「喋らねぇ空蝉ってちょっとしたホラーだろ……あいつら喧嘩でもしてんのか?」
「そういうわけではないんですけど……ちょっと複雑らしくて」
「……聞こえてっから。モモくんはオレを何だと思ってんの。何だよホラーて」
「何だも何も、普段と違いすぎて気味悪いんだよ。それに真面目な話、そういうのは傾向として良くないっつーのは、ここで働いてりゃわかるだろ。溜めてると音念になっちまうぞ」
「……かもな」
その心配ならすでに遅い。時雨が常習的に音念を出していることをモモくんは知らないのだ。
なんて補足しても仕方がないので、蛍はただ時雨に手を伸ばす。
布団の上に転がされた彼の手に自分のそれを重ねる。振り払われないのは、今の時雨にその気力がないだけかもしれない。
それでも時雨は何も言わない。しつこく傍に居続ける蛍に向かって、出ていけとは言わない。
ハナビに激昂する姿を見られたのを恥じているのはわかっている。それに対して蛍ができるのは、ただひたすら、彼から離れないという意思を示すことだけ。
「……。エッサイ、リハビリはどうだ?」
「あ、はい、順調ですよ。まだ素振りとかは控えてますけどね。早く復帰したいので、頑張ってます」
「よしよし。逆効果にならんように、ほどほどにな。っつっても俺はだいぶ堪えてきてるんで早くおまえに戻ってきてほしいけどよ……つらいぞ、班長とゴリさんに挟まれんの……ワカシに言ったら『安心感パないね~!』だと」
「あはは……あ、そういえば、あちらの新人さんには会いました?」
「会った会った。すげぇなあれ、相対的に干野がかわいく思えちまった」
「干野さんは元からかわいらしい方だと思いますけどねぇ」
椿吹班の朗らかな会話を聞きながら、蛍は羨ましさを覚えた。
少し前までそうやって雑談を弾ませるのは自分たちの側だったのに。たとえ蛍の相槌が他の人には汲み取れないものであっても、時雨は気にしたりしないから。
モモくんもエッサイくんも、たぶん時雨が喋らないことへの違和感からか、なんだか無理して必要以上に喋っているような気がする。確証はないが、なんとなくそう思えてならなかった。
しいて言えば声のトーンがいつもと違う。ほんのわずかだが二人とも語調が早い。
それを聞いているとだんだん蛍まで焦りが募ってきて、触れたままでいた時雨の手をぎゅっと握った。
(私が、なんとかしなきゃ。いつもの時雨ちゃんに……戻ってもらうために)
時雨の眼がゆるりとこちらを見て、少し眇められた。
なんだか嫌な表情。
――コンコン。
ふいにノックの音がして、意識がそちらに引っ張られる。扉の向こうからそろりと顔を覗かせたのは鳴虎だった。
蛍を見て「やっぱりここか」とどこか哀しそうな声音で呟いた彼女は、モモくんたちからの挨拶にはもう少し明るく返事を返しつつも、こちらに向かう足取りは軽そうではない。
そして、咎めるように蛍の手をそっと掴んで時雨から離した。ごく自然に。
「ごめんね。ちょっと大事な話があるから、来てくれる?」
「……あ、椿吹班長」
言われて見れば扉のところには匡辰の姿もある。彼は病室の中には入らず、目視でエッサイの回復ぶりを確認しただけのようであった。
かすかに頷いていたのはモモくんあたりとアイコンタクトでも取ったのかもしれない。
蛍を先に扉のほうへ進ませてから、鳴虎は時雨を振り返った。
「あとであんたとも話すからね」
「……、うん」
意外にも時雨は返事をした。眼はどこか違うほうを向いていたけれど。
二人と連れだって向かったのは蛍の病室だった。それにしても、鳴虎はともかく匡辰まで一緒にいるのはどういうことだろう。
雰囲気からしてあまり喜ばしいことでもなさそうだけど、と蛍は二人をちらちら見比べていたけれど、どちらの表情からも何も察せなかった。ひとまず寝台に座り、隣に鳴虎も腰かける。
「……落ち着いて聞いてね。昨日の検査の結果が出たの。それで、……なんて言えばいいか……」
「直接これを見るほうが早いんじゃないか」
「それは、……そうかも」
匡辰に差し出されたのは一枚の紙。何の気なしに受け取ったそれに、蛍は愕然とした。
何だこれは。見たこともない数字が並んでいる。
ご丁寧に『一般的なヒトの音声との比較』まであるから、音声学や音響科学の素人でもことの異常さは理解できた。
震え始めた身体を鳴虎が抱き込んでくる。そして、報告用紙を握りつぶしそうな手を、ひと回り大きな男性のそれが柔らかく包んだ。
「……大丈夫だ」
それは匡辰らしくない、気遣いの言葉。
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