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六、レクイエム・イン・ブルー

 一瞬視界が白んだ。きっと勢いよく息を吐きすぎたんで、一時的に酸欠に近い状態にでもなったんだろう。

 蛍は思わずその場にへたり込む。


 少し遅れてヘッドセットから笑い声がした。感嘆と興奮の入り混じったそれは、なぜか蛍の神経をちくちく刺す。

 なんだかものすごく疲れた。だからきっとそのせいだ。

 今は何も『音』を聞きたくない……。


『ハハ、すげぇ……いや何だこれ? どーなってんだ?』

『お疲れさま。今開けるね』


 背後で扉が開いたけれど、動けなかった。それでやっと蛍の異変に気づいた蛯沢さんが駆け込んでくる。

「大丈夫?」の問いになんとか頷き、腕を借りて立ち上がる。


 手足が重い。歩けないことはないけれど、なんだか自分の身体じゃないみたいだ。

 なんというか……酷使した呼吸器だけが本体かのような。それ以外の部分は全部、冗長で無為な付属品(おまけ)にされてしまったような、わけの分からない感覚に苛まれている。

 そんな状態だったから、時雨のところへは寄らずにまっすぐ自分の病室に帰された。


 蛯沢さんは軽く診察し「うん、まあ疲れたんだろう。もともと怪我人だしよく休んで。明日またようすを診よう」とだけ言って去っていった。


 同じ病室に他の入院患者はいないので、一人になった蛍はぼんやりと天井を見上げる。

 そのままぼーっとしているうちに、たぶん眠ってしまった。


 ……。


 水の音がする。

 近くに滝でもあるのだろうか。目の前は真っ暗で何も見えないのに、触れてもいないのに、白く濁った川の上流がすぐ近くにあると、なぜか確信できた。

 流水に紛れて他の音も聞こえる。……誰かの泣き声。


 そっちに行きたいのに、目が見えないから辿り着けない。声を頼りに探ろうとしても、川の音に掻き消されてうまく位置を掴めない。

 ううん……違うかもしれない、なんだか身体が変だ。


 ()()

 身体がない。手も足も存在しないから、何にも触れられないし、移動することもできない。


 ここはどこ?

 私は何? なぜ身体がないの?

 あなたは誰? どうして泣いているの?


『……いよ……さん……』


 ――ズン、と奇妙な感覚が降ってきて、急に身体が()()()()()()()


 心臓が脈打ち、血潮が全身を忙しなく巡り、内臓や筋肉が蠢くのがわかる。耳を澄ませば神経系をゆく電流まで聞き取れそうなほど。

 重さを感じる。寒さを感じる。痛みを感じる。

 さっきまで空虚に浮かんでいた魂が、急に肉体という容れ物に()()()()()()()のを、感じる。


『……おとうさん……!』


 次の瞬間、()()は水の中に落ちた。暗く冷たい濁流に。



「いやだよ、怖いよ、やめて、怖い、私、……死にたくないよ……」




 *♪*




 朝一番に蛍の検査結果を受け取り、萩森鳴虎は言葉を失った。

 震える足で終波(ついなみ)総隊長の元へ向かったはいいが、身体が震え、胸が詰まって(ども)ってしまう。そんな元教え子を老婦人は静かな瞳で見据えていた。


「……先生、……あ、あたし……その」

「落ち着きなさい。……私も正直驚いた。蛍にはまだ話してないね?」

「もちろんです」


 込み上げてきたものを堪えたせいで声が上擦ってしまった。タケは動じず、端末を操作する。


「……午後イチで会議を開く。班長全員と、支部長にも出席してもらう予定だ。

 そこで正式にこの件を公表する」

「えっ……!?」

「いつまでも伏せておけん。かなり厄介なことになりそうだが、騒念(クラマー)駆除のためには事の全容を明らかにする必要がある。

 ……蛍のためでもあるんだ」


 総隊長の深い溜息に、鳴虎も項垂れるようにして頷くしかなかった。

 確かにこのまま何も知らせずにいたところで何にもならない。むしろ蛍の身を危険にさらすことになると、鳴虎にだってわかっている。

 頭では、理解できても。


 気持ちの整理がつかないまま時間だけが過ぎた。

 昼食はほとんど摂れなかったけれど、なすすべなく会議室へ向う。道すがら久しぶりに匡辰(まさとき)の姿を見て余計にやるせなくなった。


 彼はこれを見てどう思うだろう。なんと言うだろうか。

 鳴虎よりも冷静で賢く、いくらか酷な意見であっても組織に必要と断じれば臆さず口にする、彼の実直さが今は怖い。

 蛍にとっては今も『お兄ちゃん』であることを忘れないでいてほしい、と願うのは鳴虎のエゴだろうか。


 斯くして、一石は投じられた。


「……おぉ~、すごい。興味深いね」


 真っ先に旺前(おうまえ)支部長が口を開く。彼はもともと技術畑の人間だそうだから、科学者の見地でそう言ったのだろう。

 匡辰とワカシは言葉を失っているようだった。前者はともかく、後者も真剣に受け止めているらしいのが、少しだけ鳴虎の気を落ち着かせる。


「清川蛍さん……えーと? 萩森班長とこの子だったっけ、これ本当に彼女のデータで間違いないんだね?」

「押印のとおり技術部長が保証しています」

「そうかぁ。へぇ……これはもう『異常』としか言いようがないね。もしくは『音響兵器』かな」

「……ッ」


 思わず手が、喉が震えてしまった。


 旺前支部長の言うことは尤もかもしれない。報告書にある蛍の『声』の周波数は約五万ヘルツ、声量は最大で百四十デシベルを超えていた。

 つまりあの細い喉から超音波が出ていることになる。それも、その気になればジャンボジェットのエンジン音すらも凌駕する大音量で。

 ……いずれも人間ではありえない数値。それこそ兵器のデータと言われたほうが納得できると、鳴虎ですら思う。


 わけがわからない。心の中を火箸で掻き回されるような激烈なショックが繰り返し襲ってきて、そのたび叫びたくなる。


 蛍のことならこの十年間ずっと見てきた。おかしなところなんてない、ごく普通の女の子だ。

 ――こんな数字だけを見て、軽々しく『兵器』だなんて、言わないでほしい。

 そんな願いと裏腹に、鳴虎自身も心のどこかで不安に苛まれている。蛍について何か見落としていたのかもしれない、彼女が結局どこの誰なのかだって、今まで知らずに放ってきてしまったのだから。


(あたし、これから……あの子にどう接したらいいんだろう)


 たとえ聞き取れなくとも、デシベルにして百幾らという音量で叫ばれたら、さすがに人体にも影響が出るだろう。今まではたまたま近距離でその爆音に晒される機会がなかったか、あるいは気づかなかっただけで。

 このあと蛍自身に事実を伝えなければならないのに、……自分がそのときどんな顔をしてしまうか、それを考えるのが今は一番恐ろしかった。



 →

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