五、奇妙な検査
今から検査を受けてもらいます、と言われた。
詳しい説明は道中で、とのことで、蛍はお兄さんに連れられて病室を出る。ちなみに胸の名札によれば『蛯沢』さんというらしい。
鳴虎に付き添ったほうがいいかどうか聞かれたけれど、首を振った。今は時雨の傍にいてあげてほしい。
いざ診察室に着いたら見覚えのある内視鏡の機械が出てきたので、蛍は少しがっくりきた。
小さなカメラを鼻の穴から入れて、モニターで声帯を観察する装置だ。昔から折に触れて何度もやってきた。
痛くはないけど、正直好きか嫌いかで言ったら後者……いや、そもそもこれが好きな人はあまりいないと思うけれども。
にしてもなんで今その検査?
――という気持ちが顔に出ていたらしく、蛍を見て蛯沢さんは苦笑いした。
「なるべく早く済ませるよ。これは一応確認しておきたいだけだから」
ううむ。幸いその宣言どおり、たしかにいつもより短めに終わったような気もする。
わけがわからないまま移動すると言われ、とりあえず大人しくついていくと、今度は医療チームからも出た。
一応は同じ科学部内だけれど、このあたりは人間ではなく機械類を専門とする技術チームの管轄エリアのはず。
ていうか、説明は道中で、って言ってなかったっけ。何も聞かされていないのですが。
……という抗議を込めて、歩きながらじーっと見つめていたら、視線に気づいた蛯沢さんははっとした顔になった。
「……あっ君、質問したくてもできないんだったよね。静かだと思った~」
「……」
「ごめんごめん。あー、今からはね、技術チームで君の『声』を計測する。だから先に器質的な問題……つまり傷や腫瘍や奇形の類がないか、調べたわけ」
……声?
そのあと蛯沢さんが続けた説明によると、これは終波総隊長からの指示らしい。
鳴虎も言っていたようにテレパシー説はさすがにありえない。とはいえハナビが蛍の言うことを理解できていたのは一応の事実である、と仮定した場合、考えられるのは『蛍には声がある』可能性だという。
ヒトの可聴域は、周波数にして二十ヘルツから最大二万ヘルツの間。それより低ければ低周波音、高ければ高周波音もしくは超音波と呼ばれ、原則として耳では知覚することができない。
誰にも聞こえないのなら、それは認識上『ない』のと同じ。
つまり総隊長は蛍が『声を出せない』のではなく、厳密には『ヒトが聞き取れる周波数ではない』のでは、と考えた。
「まあ医者として言わせてもらうと、テレパシーと同じくらいありえないんだけどね。ヒトの声域なんて女性でもせいぜい上が千ヘルツかそこらなんだから。
とはいえ総隊長の指示だから検査はきっちりやる。どんな突飛な説だって、否定するためには必ず正確な証拠が必要だからさ。それにもしかしたら他にも何か見つかるかもしれないし」
何か。……曖昧な表現だけれど、要は『騒念ハナビに関する情報』だろう。
蛍があのとき彼女に殺されずに済んだ理由がこれではっきりすれば、これから特務隊が戦う上で有利になるから。
というわけで。
技術チームの奥の奥に連れてこられた。機械のセッティングをしてくれた人によれば、普段は昇級試験やそのための人工音念を作成する部屋らしい。
蛍はその真ん中に一人ぽつんと残された。端末は持ち込み不可だと回収され、代わりに渡されたのはヘッドセット一つだけで、とりあえずそれを着けて指示を待つ。
『……準備完了っと。じゃあ清川さん、適当に叫んでみてくれる?』
ふむ。
とりあえずあまり力を入れずに息を吐く。聞こえないけれど、気持ちのうえでは『あああー』とかそんな感じの意味のない言葉を発しているつもりだ。
『……、マジかよ。
次、もうちょっと声張れる? できれば例の騒念と戦ったときと同じようにしてほしい』
そう言われると少し困ってしまう。あのときは蛍自身もものすごく必死だったから、今こんな目の前に誰もいない状態で再現しろと言われても、ピンとこないというか。
とはいえ、……できませんと言っても聞こえないだろうし。
仕方がないので思い出そうという努力はしてみる。
……眼を閉じて、想像した。あの薄暗い、廃工場の資材庫の中に立って、ハナビと対峙している状況を。
気味が悪いくらい自分とそっくりな顔で笑う、真っ白な化け物。彼女は何を思って姿を幼い少女から十六歳の蛍に寄せてきたのだろう。
そして……ハナビと蛍の間には、怒り狂っている時雨。怒号と音念をまき散らしながら、祓念刀をめちゃくちゃに振りかぶる彼の姿を、そこに付け加える。
(……時雨ちゃん)
胸が痛む。きっと彼としては忘れてほしいであろう光景だろうに、勝手に想像させてもらう申し訳なさと。
やっぱり、それそのものが、どうしようもなく耐え難い。
ふと、昔言われたことを思い出した。
蛍たちがまだ寮に入れる年齢になる前、二人揃って終波総隊長の家で世話になっていたのだけれど、あるとき庭で野良猫が喧嘩をした。時雨がすぐ追い払ってくれたけれど、蛍の頭には唸り声の応酬がこびりついてしまった。
それで怯えながら『どうして猫は喧嘩なんてするの』と尋ねた蛍に、タケは答えた――怖いからだろう。
人も同じだ。怒りとは、苦痛から身を守るための感情だから――と。
(時雨ちゃんも、……怖かったんだ、きっと)
『はぁぁ……』
母親の顔をした音念に家族を殺された。その苦しみが癒えないから。
蛍そっくりなハナビの姿は、時雨にとっては十年前の悲劇の再来を告げる凶兆なのだろう。
消したい。できることなら、ハナビをこの手で打ち消してやりたい。
もう一度……いや、今度は本当に心の底から、時雨が屈託なく笑ってくれる日が来るように。
そのためなら蛍は何だってする。
もしこの『声』が役に立つのなら、いくらでも叫んでやる。
何度でも、この喉を嗄らしても構わない、ハナビが消えるまで叫び続けてやる。
『……ぅわぁぁあぁぁああッ!!』
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