四、御伽噺にはならない話
コハルとショータはそれほど長居することなく去ったので、蛍と鳴虎はふたたび報告確認作業に戻った。
といっても、すでに一度話した内容を反芻するだけだし、鳴虎もいまいち懐疑的で、あまり実りのある問答とは言えない気もする。
この感じは前にもあったな、と蛍はぼんやり思った。先月だったか、時雨と二人で初めて上級音念と遭遇したときのことだ。
蛍がそれを騒念と勘違いして報告したら、時雨も鳴虎もまともに取り合ってくれなかったっけ。
……でも今思うと、あの上級音念も途中でおかしな挙動をした。
溶けたアイスクリームみたいになって、そこに送風機の強風を当てたように、異様な勢いで飛び散った。目の前で起きたことだから、今もその光景をはっきりと思い出せる。
それが……蛍の『声なき絶叫』を浴びたときのハナビの崩れ方と、似ていた気がするのだ。
「うーん。とりあえず一旦報告してくるわ。あとは時雨が起きてくれればいいんだけど」
「……」
「普通こうやって眠ってるのってお姫様の仕事なのにねぇ」
鳴虎は溜息をついて「図体だけはデカくなったんだから、そんな役ぜーんぜん似合わないっての」とボヤきながら、時雨の髪を撫でた。普段の彼なら飛び起きて拒んだろうが、今は目覚める気配はない。
「ねえ蛍、ものは試しでさ、あんたちょっとキスしてみたら? そしたら起きたりして」
「……ッ!?」
「あはは、冗談よ。真っ赤になっちゃって。……とにかく終波先生のとこ行ってくるから、何かあったら連絡すること。それと……あんたもちゃんと休みなさいね」
きっちり心配もしてくれつつ、けらけら笑いながら去っていく班長を見送りながら、頬に手を当てる。恥ずかしいくらい熱い……。
横目でこっそりエッサイくんを見たら慈悲深い笑顔で返されて余計いたたまれなくなった。
なんですかその『僕のことはお気になさらず』みたいな、もしくは『邪魔ならいつでも退散しますから』とでも言わんばかりの微笑みは。
しませんよ。しませんったら。
だいたい、……初めてなんだから。別にファーストキスに対して特別な思い入れや希望があるわけじゃないけど、こんな流れで済ませるのもどうかと思う。
もう少しちゃんとした場面がいいです。
などともやもや考えたところではたと気付く。
――あれ? 私、時雨ちゃんとキスすること自体は嫌じゃ、ない……?
そんなまさか、と思いながら時雨を見る。すやすや眠っている幼馴染みの、頬に貼られたガーゼの脇で、らしくもなく閉じられた口を。
唇の表面がちょっとカサついている。起きたらリップクリーム貸してあげなきゃ……というところまで考えて、また顔がじわじわ熱くなる。
本当に、嫌悪感がない。人目とか、恥ずかしさとかは置いておいて、単にやれと言われたらできる気がする……。
「……僕ちょっと席外したほうがいいです?」
「~!!」
冗談めかしたエッサイくんの発言に、真っ赤になりながら首を振った。そういう空気にするのやめてください。
ちょっともうここにいるのは精神的によくないというか変に意識してしまって気持ちが落ち着かないというか、とりあえず蛍はいっぱいいっぱいになってしまい、ぷしゅうと頭から湯気を吐いた。
一旦自分の病室に戻って顔を冷やしたい。そうするべきだ。
たちまちそんな思考に支配され、そそくさと逃げるように扉に近寄った。――けれど。
取っ手に触れた瞬間、はっとした。
音が変わった。……時雨の呼吸のリズムが、わずかに。
思わず振り向いた蛍を、エッサイくんが不思議そうに見返す。その隣で。
「……ん、……」
時雨の瞼がゆっくり開いた。鼠色の瞳がゆるりと動く。その視界に飛び込むように、蛍は踵を返して駆け寄った。
自分もそこそこ怪我をしていて痛むはずなのに、ちっとも気にならない。
「……!」
「ぁ……おぉ、ほたる、……はよ……?」
「おはようございます、空蝉くん」
「んぇ……?」
寝惚けているらしく、時雨はしばらくエッサイくんを見てぼんやりしていた。それから天井や布団が自室のそれと違うことに気づいたのか、でなければ身体の痛みを思い出したのだろう、にわかに表情を曇らせる。
蛍はとりあえず端末を取り出した。
ショートカットダイヤルで鳴虎を呼び出し、通話設定をスピーカーに切り替えて、寝台脇の棚に置く。
『……もしもし? どうしたの? ……時雨に何かあった?』
――コンコン、と爪先で画面の端を突く。
二回ならイエス、一回ならノー、三回ならどちらでもない。蛍が電話で使う簡単なルールだ。
『起きたの?』
コンコン。
『そう……、わかった。すぐ戻るからそこにいて』
もう一度ダブルノックを返し、通話終了。ふうと一息ついたところで時雨と目が合った。
「……ぁのさ、ォレ……ッけほ、かふッ」
喉が乾燥していたのか、声はガラガラだし途中でむせてしまっている。ちょうど棚に水筒があるので『いる?』と指さした。
毎朝鳴虎が置いているものだ。こういう場面を見越しておいたのだろう。
時雨が大人しく水筒のお茶をぐびぐびやっていると、扉が開いた。
やってきたのは鳴虎だけではなく、医療チームの見知った医者が二人いた。太ぶちの眼鏡をかけた優しそうな顔立ちのおじさんと、彼より一回り若い、少し日焼けしたお兄さんだ――そこで蛍は首を傾げる。
なぜお医者さんが二人も? それにおじさんは外科の先生だからまだわかるが、お兄さん先生の専門はたしか内科だったような。
ぽけっとしている蛍を尻目に、まず鳴虎は時雨のもとへ駆け寄った。
「もーっ、心配したんだから……!」
「うわ、やめろ、零す! 茶ぁ零すって! なんなんだよ……」
頭をくしゃくしゃに掻き回された少年は思わず抗議の声を上げる。鬱陶しがっているわりに声のトーンが柔らかいので、蛍は少し安心した。
反抗期だって、こういうときくらいは素直になってもいいんじゃないかな、とも思いながら。
そんな萩森班を医者二人もうっすら苦笑いで見守りながら、お兄さん先生のほうが歩み寄ってくる。……蛍のほうに。
「感動の再会してもらってるとこ申し訳ないんですけど、こっちの話を進めてもいいですかね?」
「あ、ごめんなさい。そうね」
→