一、暗渠にて
怖い。怖いよ。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの。
一方的に甚振られて身体はボロボロ。殺されてしまうかと思った。
ひどい。悲しい。怖い。
『死にたくない』
少女の形をした怪物は、まだ不安定な身体を抱き締めながら呟く。
あたりは光の差さない闇の中。時折水の流れる音がするほかは、静寂ばかりが満ちた寂しい場所。
生き延びるためとはいえ、こんなところに隠れねばならないなんて、これほど哀れなものが他にいるだろうか。嘆いても誰も憐れんではくれないから、ずっと代わりに自分で己を慰めてきた。
けれど、もう終わりにしたい。
とにかく敵は数が多い。これ以上邪魔されないように、こちらも増やさなくては。
なるべく強い仲間を。大きく頑丈で、従順な友を。
それから、それから……。
『死にたくない……』
ハナビの中に浮かぶのは『しぐれちゃん』という少年の姿。大事そうに蛍を抱き締めて、彼女が傷つかないように守っていたように見えた。
それから名前は知らないけれど小柄な女性も、真っ先に蛍のもとに駆けつけていた。
羨ましい。ハナビには、そうしてくれる人はいないから。
作ろう。恰好よくて素敵な騎士を。
ハナビのためにすべてを擲ってくれる守護者たちを。
なぜならハナビは、
『死にたくない……死にたく、ない……っ』
白い怨念は呟いた。嘆くような声音で、誰かにすがろうとばかりに手を伸ばす。
闇を掻いても抱き返してはくれない。ここには誰もいないのだ、花火には。
悲しくて寂しくてつらくて苦しくて、そして何より、……怖かった。
*♪*
静寂の中で心電図の音が響く。蛍はぼんやりとそれを見つめている。
自分も包帯やガーゼに包まれて、なるべく寝ているように言われたけれど、時雨の傍を離れる気にはなれなかった。
少年の瞼はぴったり閉じられたまま、規則的な呼吸だけをゆっくりと繰り返している。
「びっくりしました」
ふいにぽつりと落ちてきたのは隣の寝台の悦哉くんの声だ。彼は順調に回復しているそうで、もう喋っても痛むことはないらしい。
蛍はとりあえず視線を返した。聞いてるよ、という返事の代わりに。
「……あの白い女の子が騒念だったのもそうですけど、空蝉くんの怪我が……もちろん、思ったより軽傷で済んだのは良いことですよ。でも、音念が緩衝材になるなんて初耳です」
頷きを返す。同じく蛍も初めて知った。
というか、医療チームの医者たちも半信半疑ではあったのだが。
エッサイくんの言うように、時雨はあの絶望的な状況下からぎりぎりで生還したにしては軽い負傷だった。
むろんかすり傷というわけではない。この場合の『軽い』は、死ななかったのはもちろん、骨や神経にも後遺症になるような大きな損傷がない、くらいの意味だ。
それでも当初の想定からすれば随分マシな結果には違いない。
あのとき時雨は自身が発した音念に包まれていた。危うく思念自殺一歩手前の状態だったわけだが、それがハナビの攻撃に対して鎧のような効果をもたらしたらしい。
ハナビも音念の一種であるから、彼女の身体を変形させて作った武器は、複数の波長の音からなる。それが時雨の音念の恐鳴振動とうまくかち合って威力が低減された……ということらしい。
医者も『稀なケースだし、自分も初めて見る』と困惑していた。なぜか同席していたナギサのほうが詳しそうだったくらいだ。
聞き違いでなければ『あの時と同じ』と言っていた気がする。なんのことかは知らない。
ともかく治療は無事に終わった。集中治療室を出てもう丸二日が経っている……なのに、時雨はまだ眼を醒まさない。
精神的なショックが原因かもしれない、と言われた。
無理もない。あんな大きな音念を出したうえ、直後に大怪我をしたのだから。
あるいは――ハナビを見たせいで。蛍そっくりな彼女の姿に、かつて両親を殺した音念を思い出してしまったのか。
思い出すたび胸が詰まる。いつもの彼とはまったく違う姿だった。
憎悪と恐怖に塗り潰された形相で、哀しいほど悲痛な叫び声を上げて、効果がないのも構わずめちゃくちゃに刃を振り回していた。理性を放り投げたような、ひどい醜態だった。
何より、ハナビに向けた罵声が耳にこびりついて離れない。
――ぶっ殺すぞクソ野郎!
信じたくない。忘れてしまいたい。そんなのは、蛍の知る時雨じゃない。
いくら怪物相手だからって、あんなふうに汚い言葉で相手を恫喝するのは、彼らしくない。
(あんな時雨ちゃん、見たくなかった。……時雨ちゃんもそう思ってるのかな。
だから眠ったままなのかな……)
思うほどつらくなる。けれど、だからこそ早く目を醒ましてほしい。
彼が恐らく一番恐れていることは起こらなかったのだと――蛍は無事だと、知らせたいのに。
「そういえば今日、照廈班の新人さんが初出勤だそうですよ」
「……」
「あ、えと……きっと挨拶に来てくれますから、それまでに起きてくれるといいですね、空蝉くん」
言い淀んだのは蛍の唇を読み取れなかったからだろう。なんのことはない、ただ「そうなんだ」と相槌を打っただけなのだけれど。
その程度の会話すら、間に時雨がいなければ円滑にできないのだ。
蛍が気に病まないようにと、笑顔を崩さずにいてくれるエッサイくんの優しさが、逆に惨めな気持ちを募らせる。もちろん彼は悪くない、ただ今の蛍は何を見ても聞いても落ち込むだけ。
ここに居続けるともっとエッサイくんに気を遣わせてしまうし、そろそろ自分の病室に戻るべきかもしれない。
そう思っても。もし離席している間に時雨が目を醒ましたらと思うと、踏ん切りがつかない。
――コンコン。
ふいに扉がノックされ、間髪入れずに「ここに蛍いる?」と鳴虎の声がした。エッサイくんが「いますよ。どうぞ」と返すより数コンマ早く、スライド式のドアがぬるぬると開き始める。
それを見て『時雨の言うとおりだなぁ』と思ってしまい、また胸がつきりと痛んだ。
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