十七、見えざる脅威
確証はない。けれど他に有効な手があるわけでもない。
自分の祓念刀は崩れた箱の下敷きになっている。離れた場所に転がっている時雨のそれを拾う暇はないし、そもそも使い手ごとに調整されているから、他者の武器は思うように扱えない。
だから蛍は振り向いた姿勢のまま、口だけを開いた。
『うあぁぁぁぁぁ! わぁぁぁぁぁぁッ!!』
ハナビを睨みながら、思いきり咽頭を震わせる。まったく声など聞こえないけれど、直線上に佇む怪物だけはびくりと反応して、輪郭をぐじゃぐじゃと歪ませた。
散らばった断片は、すぐに本体には戻らないであたりを浮遊している。湯気のごとくゆらゆらと。
まるで少女自身が溶けて蒸発しているかのように。
『……、なんでもいい。ぜったい、ゆるさない……ゆるさないッ……!』
時雨から手を離して立ち上がる。心臓がばくばく鳴っているけれど、それは恐怖や緊張からくるものじゃない。
怒りだ。純粋な、ただ一心の、燃え上がる炎の色で、あのおぞましい白を打ち消してやる。
できるかどうかは知らない。理屈だってわからない。今の自分が冷静ではないこともわかっている。
ただ、やるだけだ。他でもない時雨のために。
大好きな人を、守るために。
『しぐれちゃんにちかづくな!』
「……くぅッ」
『なんでこんなことするの!? あなたはなんなの!? なんで――』
「ぅう、ぅぅぅ……ぅぅううるさぁぁぁぁぃぃぃぃぃぃいいいいッ!!」
ハナビが絶叫した。それは衝撃波となって蛍を吹き飛ばす。
何メートルもめちゃくちゃに転がった挙句、何か鋭いもので腕を切った気がするが、痛みを感じる余裕はなかった。
鮮烈な憤怒によって溢れかえる興奮の泉に浸った脳は、そんなことお構いなしに次の命令を叫ぶ。
身を起こせ。そして喚け。
あの化け物を滅ぼす鬨の声を上げろ!
『……ああぁぁぁ! かッ……、げほッ、けふ』
「きゃぁッ……、ああもう、こうなるから嫌だったのに!」
叫びすぎか、怪我のせいか、はたまたあたりに舞い散る埃のせいか。喉が痛んで思うように叫べず、咽てしまった。
そのぶんハナビの反応もさっきよりはずっと平気そうだ。
こちらは涙で焼けた目尻が痛むのに。悔しいくらいに涼しい顔で、少女は人間ぶって擦り切れたスカートの裾を払う仕草をしながら、それでも震えの残った強がりを言う。
そう、なぜか蛍にはわかったのだ。それが虚勢であることが。
あるいはこの怪物は、いくら見た目を取り繕っても、結局本物の人間ではないから。それらしく振舞ったって、涙を流したりはできないのだと。
「まだ大丈夫……まだ、あんたは私を殺せない……今なら殺せる。殺すしかない。
何なのって、それはこっちの科白よ。私が聞きたい。何なのよ……あんたさえいなきゃ、私はもっと自由に生きられるのに」
振り上げた腕が、もう一度大鎌を模る。
叫ぼうと開いた喉がひゅうひゅうと鳴る。乾ききって疲れ果てたそこは、恐らくきっと、普通の人が『声が嗄れた』と称するような状態なのだろう。
忘れかけていた痛みがゆっくり蘇ってきて、次第に息を吸うのすら負担となって内臓に重くのしかかる。膝と手をついたまま、鼻梁のわきを生暖かいものが伝い落ちるのを感じながら、どうすることもできずにハナビを睨む。
「ごめんね? でも、恨むなら、私たちを作った人たちよ……」
問いかける暇もなく。
死神の一手は……目の前で止まった。文字どおり睫毛の数ミリ先で。
そして薄氷のように砕け散った。
――ぎゃぎゃがががががががッ!
数瞬置いて返るこだまが、耳をつんざく。
「ああぁあぁああああ!?」
悲鳴を上げるハナビが見えた。いや、そう言ってもいいものか。
なぜなら少女の身体はめちゃくちゃに刻まれて、もう顔の一部しか残っていない。仮面のようなそれが闇の中にぽつりと浮かび、その下を這うように疾駆る、細い銀光。
音念に混じ入りながら暗色の制服が翻った。それを彩るは、艶やかな梅鼠色のロングヘア。
沼主凪沙の猛攻に、騒念はたちまちのうちに砕けていく。
「あぎゃッ……なんで、こん、んなァ、早……ッ、……いや、だ……嫌だ……死……しにた、く……ないぃぃ……ッ」
「黙れ」
ナギサの祓念刀は長い。剣というより鞭のようで、それは細くしなやかに宙を裂き、しなりがつくほど振動が上乗せされているかのようだった。
凄まじい高速で振り抜くたび、ビュッ! と鮮烈な斬叫が轟く。斬り裂かれた霊体がバラバラに散っていく。
呆然としている蛍に駆け寄ってくる人影がある。その形を見定めるより先に抱き締められた。
懐かしい匂いと温もりに、急に緊張が抜け落ちる。今度こそ完全に全身の痛みを把握して、蛍は声なく呻いた。
「蛍! ああ……でも良かった、無事で……、待って時雨は!? あ……、やだ、そんな……」
鳴虎は狼狽しながらも端末を取り出して救急車を呼ぶ。それを横目に、蛍は首だけなんとか巡らせて、もう一度ナギサを見た。
ハナビはめちゃくちゃに崩れてしまったか、原型を留めていないどころか、もうどこに彼女がいるのかすらわからない状態だった。けれどナギサは攻勢を緩めてはいない。
掻き斬るたびに歪む空間がその証だ。それを見て愕然とする。
わかってしまった。あの『白い少女』ではなかったのだと。
あれはせいぜいハナビのごく一部、いわば人の眼を騙すための擬態。本体はこの空間に広がっている暗がりの、陰だと思っていた部分、そのすべて。
……二人を攫うのに使われた、あの腕だらけの霧よりも何倍も大きい。
これを全部消さなければ滅ばないというのなら。いくらなんでも、そんな芸当はナギサにだって。
憂慮を嘲るような破裂音が響く。ナギサが姿勢を崩した、その一瞬の隙に、部屋じゅうすべての闇が一点に収束した。
それは波が引くように一気に後退していく。むろんナギサもすかさず追って、その淵に刃を叩き込んだけれど、その周囲の半径二メートル程度を抉っただけ。
「チッ……」
そうしてハナビは多量の残留奏だけを残して、消えていった。
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