四、もどかしい背伸び
[鳴虎:おはよう[太陽]調子どう? 昼に……]
表示された名前が時雨でないことに少しがっかりしてしまいながら、中途半端に途切れた通知バルーンをタップした。
朝から溜息が深い。――私、時雨ちゃんのこと好きすぎじゃない?
何気ない自分の思考にさえ面食らい、画面から意識が離れる。
(ちょっと待って。好き、って……別にそんなんじゃ、ええと……たぶん家族ってそういうもので……普通、だよね……?
……でもその理屈だとお姉ちゃんにがっかりするのはおかしくない……?)
もちろん鳴虎のことだって大好きに決まっている。時雨と一緒に長年世話になってきて、どれだけ慈しんでもらったかわからないし、班長としても頼りにしているのだから。
時雨と彼女と、どちらがどうとか比べること自体おかしい。二人とも蛍にとっては家族。
これ以上考えるのは止そう、とかぶりを振って、改めて文字に向き直る。
[鳴虎:昼に一回ようす見に行くからね
たぶん今夜帰れるから、夕方までには荷物まとめておくこと。洗濯物は分けといて]
[蛍:わかった☺]
[鳴虎:あと何か欲しいものある?]
喉元まで『時雨を連れてきて』という感情が込み上げてきたが、飲み込んで[とくにないよ]と返した。たぶん言わなくても鳴虎にくっついてくるだろう、きっと、恐らく、……願わくば。
鳴虎からの了解の二文字だけ確認して、端末をテーブルに裏向きにして置いた。
すべての思考を振り切るべく齧りかけのパンにかぶりつく。妙に舌に刺さるキャラメルバターの塩気が、心のすみっこをざらりと撫でたような心地がした。
どうしてこんなに焦っているのか自分でも不思議に思う。昨日だって朝は一人だったし、そのときは不安なんてなかった。
今日は時雨に会えないかもしれない、なんて思いもしなかった。
急に怖くなったのは空蝉夫妻の事件資料を読んだせい? ずっと『蛍の保護者』だった時雨が、本当は脆さや痛みを抱えていることを知ってしまったから?
違う。
昨日、会議が中断されて別れたきり、時雨は顔を見せずに帰ってしまったからだ。そんなこと初めてだった。
言ってしまえばたったそれだけ。傍から見れば馬鹿みたいな理由だろう。
(時雨ちゃん)
我ながら情けなくて嫌になる。彼がいないと他に何も考えられないほど臆病者なのか。
そんな蛍に呆れたように、伏せたままの端末は沈黙している。
再びせり上がってきた溜息を、もう味のしない牛乳と一緒に喉に流し込んで、腹の中へ押し戻した。
まずい朝食だ。これなら昨日のバナナのほうが何倍も美味しかった。
……エッサイくんのようすでも見に行こうかな、とバナナからの連想で思い至った蛍は、重い腰をのろのろと持ち上げる。
顔を上げたからか、向かいで朝食を摂っていた夜勤明けの内勤職員と目が合った。なんだか苦笑いされたように思う。
よほどひどい表情をしているらしいとそれで気がついて、蛍もくしゃりと口角を潰した。
*♪*
蛍との短いやりとりのあと、時雨も自室でぼんやり考え込んでいた。
足元から薄黒いものが昇ってくる。そこに自身の祓念刀を立てて散らす。
自産の音念を処理するのは初めてではない。
医療チームからははっきりとは言われていないが、恐らく体質なのだろう。人より音念が湧きやすい性格とでもいうのか。
でなければ、……両親を失った日からずっとこうだから、癖になっているのかもしれない。
こんな己の姿を見せたくなくて、昨日は蛍の顔も見ずに帰ってしまった。
(今ごろ拗ねてるかな)
予想というより願望に近い考えが浮かぶ。そうであってほしかった。
だからこそ弱いところは見せられない。なんとか昔話はできても、今もまだそれを深く引きずっていることは、晒したくない。
蛍が必要とするのは『明るくてお喋りな時雨ちゃん』だから。
……そうでなくてはいけないのだ。
「――時雨ぇ? 支度できたー?」
「うおッ!?」
急にドアが開いたものだから時雨は飛び上がった。手を離れた祓念刀が床に落ちて、ガシャンと鈍い音を立てる。
弟分の醜態を、ドアの向こうに立っていた鳴虎が呆れた表情で眺めていた。
「何やってんの」
「いきなり開けっからだろ! ったく、ガキじゃねぇんだからノックくらいしろよ、もぉ……」
「したけど? あんたがボサッとして聞いてなかったんでしょ。で、すぐ出掛けられる?」
「……あーっと、待って。十ぷ……いや五分でいいわ」
「……。十五分待ってあげるから顔洗ってきなさいよ。あと歯磨いて、その寝癖も直……」
「天パだっつの!! 知ってんだろッ」
つんけん怒りながら洗面所に向かう時雨を、鳴虎はやれやれという表情で見送っていた。
いくら保護者役だからって子ども扱いしすぎだと言いたい。しかし、こうした鳴虎のいささか過剰なくらい母親じみた言動に、しっかり馴染んでもいる自覚はあった。
……助けられている、と言い換えるのもやぶさかではないくらいには。
昔、たしか匡辰にちらりと聞いた話では、彼女も早くに親と離ればなれになったらしい。どんな事情かは詳しくは知らないが。
――君や蛍の境遇は、彼女にとっては他人事ではないんだろう。だから放っておけないんじゃないかな。
『とはいえ彼女の親は生きてる。蛍の場合は顔も名前も思い出せないから、生死はわからない。ちなみに僕は両親とも健在』
『……?』
『みんな環境は違うんだよ。そういう意味では、互いを完全に理解しあうことは不可能だろうね』
『ふーん……じゃあ、なんでめー姐はお節介なの?』
洗面台の上に水飛沫が跳ねる。
『それが人間だ。……不完全にでも、解る部分をすくい取って埋め合う。大元の事情は違っても、親が居ない悲しさや、代わりの保護者の重要性を彼女はよく知っているから、自分がその役を買って出たんだろう』
『……?? 匡辰兄の話わけわからん』
『あ……ええと、つまり……優しさかな』
『そっか。……うん、オレもめー姐、優しいと思う』
――でもその温かさが、たまに痛い。
蛇口を絞って水を止める。洗い上がってさっぱりした顔につられて、ほんの少しだけ時雨の気分も落ち着いた。
水気を拭き取りながら、鏡に向かってやや無理やりに笑顔を作る。
「……よーし。じゃ、蛍の前でシケたツラすんなよ、オレ」
そろそろ大人にならせてほしい。優しくされる側ではなく、する立場に。
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