三、憂鬱とパンダ
「あ。……干野、なんか静かだと思ったら落ちてやがる」
「はは、疲れたんだろうねぇ。そっとしといてあげよ」
「いいのかよ」
「今日だけ特別」
葬憶隊が任務時の移動に使う専用車は、班ごとにハンドルを握る人間が変わる。たとえば萩森班や照厦班の場合、班員がみんな運転免許を持っていないので、班長しかその任を果たせる者がいない。
そこへくると椿吹班は三人とも対応できる。ジャンケンとかで決めるんだろうか?
――なんてことを考えながら、ワカシはバックミラーに映るコハルの寝顔にくすりと笑んだ。すでにサングラスをかけ直しているので不審者然としている。
自分も疲れているだろうに運転手役を引き受けてくれたモモスケは、視線は前に向けたまま、溜息だけを返した。
「で……奥には何がいたんすか、班長どの」
「しゅごいのがいたよ~。まず上級音念が一、二、……五体くらいかな。で中級音念はその倍以上」
「……冗談だろ?」
「や~、マジマジ、大マジ。しかもその原因ってのがもっとすごいんです。――なんと騒念が一枚噛んでた」
本来ならモモスケは彼の班長である椿吹から聞くべきなのだが、どのみちいずれ耳に入ることだろうし、とワカシは敢えてはっきりと告げる。
思わぬ単語に向こうも一瞬理解し損ねたのか、すぐに返事はなかった。ただ直後にハンドル操作が怪しくなった瞬間があり、車体の向きを持ち直しつつの独り言めいた「っと……」の中に、彼なりの驚愕が詰め込まれているようだ。
「一応これオフレコで~」
「……だろうな。つか、さすが、よくそんなもんに会って無傷で……」
「や、違うよ。ボクも一人で戦ってたらたぶん殺された。今回はたまたま向こうに攻撃する気がなくて、ちょうど二人が来たとこで逃げてくれたから」
「あっぶねぇ……!」
人の心配をしている場合ではなかったと知り、モモスケは悲鳴とも歓声ともつかない素っ頓狂な声を上げる。
今度こそ角度を狂わせたタイヤがわずかに中央線を割った。すぐに向きは戻したが、車に搭載された検知機能が野次を飛ばすので、そちらのほうが心臓に悪い。
交通量もまばらな一般道でそれほど過敏になる必要があるかはいささか疑問だが、警報の解除は禁じられている。間違っても治安維持機構は絶対に事故っちゃいけないのだ。
ワカシはけらけら笑って「モモくぅん、安全運転でお願いしますよぉ~?」と茶化した。
「ふざけてる場合かよ。何年ぶりだ騒念とか」
「毎年出られても困るでしょ。それにモモくんも昨日会ってるよ」
「は?」
「蛍ちゃんを殺そうとしてたっていう、真っ白なお嬢さん。あれがそう」
「……待て待て待て、いや、確かにありゃ異常値だったが……! じゃあ何だ、昨日今日でもう五人も騒念に出くわして……」
それでも未だ死者はゼロ。むろんそれは単なる幸運ではない、とワカシは考えている。
あくまで『彼女』の標的は一人だけで、それ以外の人間は邪魔さえしなければ敵とは見做さず、自身が不利な状況では逃走を優先する。今日だってモモスケたちが来た――つまり祓念刀が増えたから逃げたのだろう。
その高い知性と指向性が導いた、極めて論理的な結果。
つまり端から討伐のみを使命とする特務隊が対峙した場合は、恐らく同じ展開にはならない。
(……ちょっと心配、なんて言ったらナギサさん怒るかな)
決してかの人の腕を軽んじるつもりはないが、何が起こるかわからないのが葬憶隊の仕事だ。万全を期するにはもっと情報が要る。
それも可能なかぎり早く――音念は放置すれば無限に増長するものだから、時間が経つほどこちらの不利になってしまう。
幸い、わずかに手がかりはある。問題はどう手をつけたらいいかの一点のみ。
騒念の標的、清川蛍。
以前から……具体的には数日前の任務で、相棒の時雨とともに意図せず上級音念を倒していたことが気になってはいた。いくら二人で協力したとしても、これまでの実績に見合わない成果だ。
その一件のみでは両隊員のどちらに要因があるのか測りかねていた。蛍そっくりの騒念が出てきたことで、ようやく問題が輪郭を帯びてきた感がある。
どうやら容姿の元になったのはすでに亡くなっている別人らしいが、恐らく彼女の身内であり、騒念は双方に明白な敵意を向けている。
そして蛍自身の、本人にも自覚がないらしい奇妙な『強さ』。
すべては繋がっているのだろう。清川蛍という少女の、過去の空白に。
「……なんか嫌な感じだなぁ」
ワカシは車窓に肘をついてぼやいた。運転に集中しているのかモモスケは答えず、バックシートでは何も知らないコハルが寝息を立てている。
束の間の静けさを乗せた隊車は、寂しい夜道を走っていった。
*♪*
朝の食堂は人が少なくて静かだ。時雨がいないからなおさらに。
しかも蛍の場合、適当な誰かと雑談することもできないわけで、行儀が悪いのを承知で菓子パン片手に端末を触る。一応トークアプリに時雨から挨拶があった。
数種類のスタンプ群からなんとなく太ましい体型のパンダを選んで『おはよう』を返す。
絵柄が好きなわけじゃないけれど、やたらよく動くGIFアニメが賑やかな感じがするから、ちょっと慰めになる気がしたのだ。気がするだけ。
[時雨:昨日ひさびさにナギサ先生きてたからちょっと稽古つけてもらった]
[蛍:珍しいね]
[時雨:どっちが?]
[蛍:先生がいるほうだよ 他にある?]
[時雨:稽古?]
[蛍:それは普通 珍しくない]
[時雨:そりゃそうか]
ほとんど内容のない、くだらないログが積もる画面になんだか癒やされる。
今日の萩森班の活動予定は市内のパトロール。合間に支部にも寄るはずだが、わざわざ『顔を見せてほしい』なんて、これまでは言う必要がなかった。
放っておいても時雨のほうから来るからだ。何しろ普段は寝起きする建物すら同じ、朝から晩まで一緒にいるのが当たり前で、離ればなれでいるほうが変な感じさえする。
だからトークアプリの履歴だって、他の人とのほうが多い。
そして今、蛍は初めて疑問に思ったのだ。
今日はどうだろう。今なにも言わなくても、時雨は会いに来てくれるだろうか、と。
まさか人生初の「呼びつける口実」が必要なのか……?
そんなことを熱心に考える自分にさえ驚く。改めて、己がどれほど彼に依存しているのかを思い知らされるようだ。
なんとも言えない気分になりながら、ぽよんぽよんと躍るワガママボディのパンダと無為に見つめ合っていたら、新たな通知音が鳴った。
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