二、白魔が哂う窓の下
中級音念ごときにこれだけの取り巻きが集まるのはおかしい。
中心にいるのは最低でも一体以上の上級音念であるはずだし、そのうえで吸引力を高める別の要因もあると考えるのが妥当だ。
これほどの大量発生は事故を通り越して災害にも繋がりうる。再発を防ぐためにも原因を調べねばなるまい。
だが――その前に。
「お掃除しないと」
ワカシはサングラスを外してズボンのポケットに仕舞った。どうせ誰も見ていないし、さすがに上級音念が複数相手では邪魔になる。
恐らく共食いしたのだろう。それにしても異常な成長速度だが、調査の前にこのデカブツどもを消さねばならない。
そのうち班員たちも追いつく。上級音念となると百々輔もまだ一人で余裕というわけにはいかないだろうし、まだ経験の少ない狐晴を庇いながらではなお荷が重い。
というよりこの惨状は、本来なら特務隊が任務を受けてもおかしくない光景だ。
呼吸を一ツ。あやめ色の瞳に黒煙のような音念を映す。
一部は無彩色のままヒトの形をいびつに捏ね上げた異形たちは、口々に何かを喚いているが、いちいち耳を傾けたりしない。
踏み込みはわずか数歩。音もないほど軽やかに怪物の群れへと潜り込んで、そのまま斬り抜ける。
砂埃を拭ったような軌跡が左右対称に残され、それが消えるよりも早く――彼らが形を作り直すより先に、次の斬撃が新たな光を発した。
生き物ではないから、いくら斬っても血は出ない。ゆえに鈍ることのない切先は軽やかに躍り続ける。
『ォオ怨オ゙悪ォオォォ惜オ――』
『してゆるしてゆるしてゆるし』
『みてよぉ、こっちみてよ、みて、見てぇぇッ』
ふつりふつりと一つずつ消していくほど、まだ残っている声が大きく響く。
その合間にワカシが落とすのは靴底が床を擦る音だけ。己は一言も発さず、呼吸を乱すこともなく、ただ淡々と敵を屠るのみ。
それだけが、憎悪から離れる術だと教わった。
『お、かあ、さ――』
――ブツッ。
古い映画の演出のような、ブラウン管テレビを消した瞬間に似た断絶の響きを以て、その悲鳴は終わる。声の主は今もどこかで叫び続けているかもしれないけれど。
葬憶隊が消すのは誰かの過去の遺物であって、現在や未来は埒外だ。少なくとも実働部隊にとっては。
かくしてすべての雑音は潰え、ワカシはもう一度呼吸をした。
(……よし、終わった。そろそろ向こうに戻ってあげないと怒られちゃうかな)
踵を返そうとして、
「――ひどーい。せっかく大きい子たくさん作ったのに、皆殺しにしちゃうなんて」
聞き捨てならない声に呼び止められる。はっとして振り返った先に『それ』がいた。
――少女。色は白。
その容貌は、数時間前に見せられた『十年前の清川蛍の写真』に酷似している。
しいて言うなら髪は現在の彼女と同じくらいの長さになっているが、およそ話に聞いたとおりの騒念が、窓辺のボックスチェアに腰掛けていた。
「おっと……。本当に静かなんだね、気づかなかった」
「あなたこそ、ヤクザみたいな強面のくせして、みんなを殺すときは黙りなのね。似合わなーい」
「顔の話は止してほしいな……けっこう気にしてるんだよ、これでも」
まるでそこらの道端で知り合いに会ったかのように穏やかな会話をしながら、手は祓念刀を握り直す。
知らず上下していた顎に脂汗が滲んでいた。対応を誤れば死、それも一個部隊全滅もあり得る。
騒念とはそういうものだ。あれは、小さな少女の形でこちらの目を欺いているだけで、実態を外見から推し量ることはできない。
けれども恐らく、たった二振りで斬り済ませる大きさではない――少女の落ち着き払った態度がその証だ。対峙しているのが昨日と同じ班長格でも、今度は祓念刀の数が少ないため警戒に値しないと、彼女は判断している。
それにしても、――本当に流暢に話す。たしかに自立した思考能力があるらしい。
それどころか、はっきりと自我を感じる。
「ねーぇ、……さっきからそのカタナ? フツネントーだっけ? 触ってるけど、私のこと殺せるとか思わないほうがいいよ?」
「……いやぁ、そうは言ってもキミ怖いし」
「アハハ。私だってやたらに敵を作りたいわけじゃないの、あなたが何もしてこないなら殺さないわよ」
「ふーん……なら蛍ちゃんは? あの子のことは問答無用で襲ったって聞いたけど」
少女はにたりと口を歪めて笑う。人間には物理的に不可能な唇の曲がり方が、いかにも怪物らしかった。
「あれは『ほたる』って呼ばれてるのね? 虫の名前なんて変なの。それに今日はどうして来ないのかしら」
「……キミが虐めたんで怪我して休んでるんだよ」
「あぁ、私と違って簡単に直せないんだっけ、人間の身体って不便ね。じゃあ……私、もう帰るわ。あの子が来ないなら意味ないもの」
……どうする。逃がしていいものか?
さりとて追ったところで己に倒せる相手か?
せめてもう少し情報がほしい。この騒念について、何でもいいから掴まなくてはならない。
すでに秘密の箱ならある。ただ、それを開ける鍵がまだ見つかっていない。
つまり――
「最後に一つ教えてくれないかな……キミと蛍ちゃんってどういう関係? というより、蛍ちゃんって何者?」
騒念の言動には一貫性がある。明らかに清川蛍を特別視しており、敵意がある。
状況から見て、異常発生した音念の群れや急成長はこいつの仕業だと考えるのが自然だし、ともすれば罠であったらしいと推察できる。他ならぬ清川蛍を殺すための。
その執着には必ず意味がある。これほど賢く、確固たる自我を持つのならば尚更に。
蛍だ。あの子に何か、こいつを倒すための秘密が仕舞われている。
騒念はぐにゃぐにゃと笑いながら「どーしようかなぁ」と高笑いした。初めてそこで祓念刀が音波を検知したが、まともに数値化できずにエラーを吐いただけだ。
そして僅かな喧騒に、新たな音が加わる――近づいてくる、聞き覚えのある靴音が、二人分。
「……ッ二人とも下がっ……」
ぞっとして振り返ったワカシの眼に班員たちの姿が映る。
全身に疲労感をまとったモモスケとコハルは、焦燥も露わな班長を見てぽかんとした。二人とも祓念刀を構えてはいない。
呆れ混じりの「……どうかしました?」の一言に、ワカシはもう一度正面に向き直る。
開け放たれた窓。静寂の中でカーテンだけが風に揉まれている。
神出鬼没の怪物は、音の欠片も残さずに、姿を消していた。
→