十六、蝉が蛍を拾った日
およそ十年前、夏。萩森鳴虎は正直苛立っていた。
本来なら、音念事件の被害者のケアは戦闘部隊の仕事ではない。
かの怪物は人の精神活動に由来する。なので葬憶隊の医療チームには精神科医や、臨床心理士の資格を持つカウンセラーも在籍しているのだ。
ただ時雨少年がそうであるように、身内の死に遭遇したトラウマが、新たな音念の発声源となってしまう例は少なくない。
彼らは自分から出た音念に脅かされ、ますます情緒が不安定になるという悪循環に陥る。だから祓念刀を備えた隊員が常駐し、彼らを安心させてやらねばならないのは、まだわかる。
問題はここ最近、ほとんど毎日脱走されていることだ。
「二日続けて同じ場所には行かないだろう。昨日は線路沿いを歩いていたから……」
「そんな悠長なこと言ってないで、早く探しにいかないと!」
「……そうだな、ごめん。僕は東口から回ってみる」
「見つけたらすぐ連絡してよ?」
鳴虎の剣幕に、匡辰も眉を下げた。
焦ってしまうのは時雨が見つかる場所のせいだ。踏切を潜るとか、屋上のフェンスを登るといった直接的な行動こそまだないとはいえ、次はその一線を越えてしまうかもしれない。
……それでもし、自分たちが間に合わなかったら。そう思うと怖くてたまらなかった。
握り込んだ端末では市が提供する防犯系アプリが起動している。迷子や徘徊老人などが保護されると通知されるが、必ずしも枕詞に『無事に』とつくわけではない。
一度ならず遺体の発見情報を受け取ったこともある。それだけは絶対に避けたい。
焦りのまま走り出した鳴虎は、慎重派の匡辰と違ってほぼ勘のみで時雨の行き先を推定し、最短距離を選ぶ。
ところが最初の角を曲がった直後に急ブレーキを掛けねばならなくなった。前方に妙な人影を見たからだ。
「……時雨くん?」
まさに探している少年が、何か大きなものを背負って、ふらふら歩いてくる。今にも倒れそうになりながら。
鳴虎は素早く駆け寄って時雨を抱きとめると、端末のリダイヤルを押した。
「ッ匡辰くん! すぐこっち来て!」
時雨が背負っていたのは、彼と同じくらいの年齢の女の子だった。意識がなく、全身ずぶ濡れで服もボロボロ、時雨が言うには清川の河原に倒れていたらしい。
幸い呼吸はあったし目立つ傷もない。とはいえ小さな身体は冷え切っている。
追いついた匡辰も同じことを思ったのだろう、こちらが言うまでもなく「先に連れて行く!」と告げて少女を抱き上げ、そのまま支部へと走っていった。
呆然としている少年の手を引いて「帰ろう」と言うと、時雨は小さく頷いた。
帰り着いたころ、少女はすでに医療チームで救護処置を受けていた。警察にも連絡済らしい。
時雨はそわそわしながら「あの子どうなるの」と尋ねた。『どうなる』の意味を図りかねた隊員二人は顔を見合わせ、それからちょっと考えて、こう答えた。
「とりあえず身元がわかるまでは、君と同じように支部で預かることになるんじゃないか?」
「ミモト?」
「どこの誰かってこと」
「……あ……、わかったら、うちに帰んだ。……ねえ、もし誰だかわかんなかったら?」
「ええと……、そういう子のための施設に、引き取られる、……かな」
時雨はそこで泣きそうな顔になり、
「……オレもそう? ここにいちゃダメ?」
と、脱走常習犯とは思えない言葉を口にする。
あんたねぇ……と呆れかけた鳴虎だったが、ふと気付いた。
時雨は今まで必ず見つかった、もともと子どもの足では遠くには行けないのもあるけれど、思えばいつも、すぐ目に付くわかりやすいところにいた。
もしかしたらこの子の脱走の目的は、両親を探して彼岸を覗き込むことではなかったのかもしれない。
その後も時雨は何度となく「あの子は?」と尋ねてきた。
果てには脱走するかわりに少女の病室に入りびたりになり、片時もベッドの傍を離れない。
一緒に眠り姫の目覚めを待ちながら、発見したときの状況をなるべく詳しく聞き出すのが、鳴虎たちの新しい仕事になった。
そうして、二日ほどして。
「あっ……起きた! おはよう!」
「……?」
先日までの暗い顔はどこへやら。ようやく目を覚ました見知らぬ少女を、時雨は滲むような優しい微笑で迎えた。
どうも喉に障害があるらしく、少女は声を出せなかった。しかし筆談しようにも文字が満足に書ける歳でもない。
不安のただ中にいるであろう少女の支えになったのは時雨である。歳が近いし、何より態度が友好的だったこともあり、少女はすぐに彼に懐いた。
彼女が記憶喪失だと気づいたのも時雨だ。
何しろ朝から晩までずっと一緒にいるものだから、早々に唇を読む術を覚えた彼は、誰よりも正確かつ迅速に少女の言いたいことを理解できるようになっていた。
なんなら大人たちも『時雨を通せば早い』と認識し、彼を通訳扱いしていた。
結局身元もわからないまま。時雨がつけた仮名が、そのまま彼女の通称になった。
清川で拾ったから清川、蛍石のペンダントを持っていたから蛍で、清川蛍。
適当な命名なのに、なんだか意味深だと鳴虎は思う。
時雨は蛍を助けた。同時に暗い水辺で彼岸を臨んでいた少年も、まさしく蛍の光に導かれたように、明るい陽の下に戻ってきた。
少なくとも鳴虎の眼にはそう映った。この子たちはお互いを救い合ったのだ、と。
「めー姐、めー姐っ、葬憶隊ってどーやってなんの?」
「まず道場に通って訓練するのよ。すぅ~っごく厳しいんだから」
「……。ホントに?」
「本当だ」
「おぉ、そっかぁ」
「……ちょっと今の何? なんで匡辰くんに確認するわけ?」
「だってめー姐、大げさなときあるもん。なー蛍」
「……」
「ふっ……」
「蛍ちゃんまで……、匡辰くんも笑ってんじゃないわよ! もーっ。……ふふ」
時雨はよほど施設に行くのが嫌だったのか、葬憶隊入りを希望した。
当然のように蛍も追従した。
そうして記憶も声も取り戻すことなく、いつまでも『べったり』のまま十年の月日が過ぎて、今に至る。
思い出せないものは仕方がない。人が生きていくには、未来を向くしかない。
鳴虎だけではない。蛍も、恐らく時雨も、みんなそう思っていたはずだ。
あの日、河原に置き去りにしてきた謎が、今さら蛍たちを脅かしにきた。闇に沈んだ過去の淵から、死者の顔をした殺意を伴って。
生き延びるためには知らねばならない。
清川蛍とは、何者か――?
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