十五、うつせみの悲劇
資料室は特有の臭いがする。ほとんどはデータベース化されているといっても、いくらかは紙の資料もあるから、カビでも生えているのかもしれない。
蛍は検索端末の前に腰を下ろし、ふうと息を吐いた。
……やっぱり身体は痛い。生活するだけなら我慢できる範囲だが、任務への復帰は遠そうだ。
時雨が一度調べているから『つぐみ』の新たな情報が得られる望みは薄い。けれど他にすることも思いつかない。
なんとか彼の見落としそうな点を探して、そこを取っ掛かりにできないだろうか。
(うーん……)
何も思いつかないまま検索窓にカーソルを合わせる。
気づけばなんとなしに『うつせみ』と打ち込んでいた。当然エンターキーを二度押せば、空蝉夫妻思念心中――時雨が両親を失い、葬憶隊に身を置くことになった事件が表示される。
蛍は少し迷って、概要をクリックした。
勝手に見るのも悪い気がしたけれど、画面の前で無為に時を過ごすよりは、何でもいいから文字を目に入れたかったのだ。……というのは言い訳かもしれない。
それから二十分くらいかけて、結局すべての関連資料を読み通した。途中からは泣いていた。
数十枚に及ぶ、血痕や破壊の跡が生々しい現場写真。中には『遺体』と記されたリンクもあったが、アカウントに閲覧権限がないと表示されて、思わずほっとしてしまった。
けれど写真がなくとも、詳細な報告書から読み取れてしまう。夫妻がどんなふうに苦しみながら死んでいったのか……。
わずかながら当時の時雨のようすがわかる記述もあった。救出後、しばらく支部で保護されていたらしい――そういえば彼から親戚の話を聞いたことはなかった気がする。
『一言も話そうとしない。食欲も少ない。生きる気力を失っているように思える』
報告者の名前は、萩森鳴虎。
こちらの胃まで鉛を飲んだように重くなる。涙を拭いながら、同時に少し疑問にも思った。
……この事件は蛍が彼に拾われるほんの数ヶ月前の出来事。けれど自分の記憶にある時雨は、今とあまり変わらない、明るくて人懐っこい少年だけだ。
その短い期間に、何があったのだろう。
ぼんやり考え込んでいたら背後で扉が開いた。
続くのは聞き覚えのある「あぁ、いたいた」の声。振り返れば鳴虎がこちらに歩いてくるところだった。
「もう、怪我人は休んでなきゃダメでしょ。調べ物なら時雨に……って……」
蛍のすぐ後ろまで来て、画面を覗き込んだ途端に鳴虎は黙り込んだ。明るかった雰囲気ごとボリュームを絞るように掻き消える。
一転して少し険しい表情になった鳴虎は、少しの沈黙のあとにもう一度口を開く。ひどくゆっくりと、言葉を慎重に選びながら、というふうに。
「これ……時雨には言ったの? ……わかった。じゃあ、あんたから言うまであたしも黙っておくからね」
「……」
「そう……あの子、今でもけっこう無理してるのかもしれない。随分明るくなったと思ってたけど。……でもね、蛍」
蛍の肩にそっと手のひらが添えられた。いつも頼りになる班長のそれは、本人が小柄なこともあって、蛍のより少し小さい。
昔から鳴虎は自分たちに対してスキンシップを多用する傾向にある。とくに叱るときと慰めるときには。
「時雨のことと、あんたの……例の騒念のことは別の話。もちろん、かなりつらいだろうから、今すぐとは言わないけど。そっちにもちゃんも向き合わないと」
暗に『時雨の過去をダシにして逃げている』と言われている気がしたけれど、実際それも否定できそうにないな、と蛍は思った。
あの白い少女の件はいくら考えたって仕方がないし、かといってすべて忘れて平常心でいられるわけもない。だからもっと強烈な苦みで誤魔化している。
……自分を嘆くより、他の人を憐れむほうが気が楽なのかもしれない。
とはいえ蛍だって時雨を利用するのは嫌だと思う。せめてこれを単なる逃避にはしたくない。
だから鳴虎の手の甲を叩いて、画面を指さした。
「え、何?」
ジェスチャーや口パクでは伝わらない。もどかしさを噛み殺して、端末のメモアプリを開く。
『お姉ちゃん 何したの』
「……えっ?」
『時雨ちゃんに 昔 私と会う前 別人みたい 励ましたの どうやって』
文章を整えている暇がないから、最低限の文言だけを並べる。あとはこれで伝わってくれると祈るしかない。
鳴虎はしばらく端末の画面を眺めて呆けていたが、やがて「あぁ……」と得心がいったらしい溜息をこぼして、薄く微笑んだ。
肩に触れている手が二、三度、きゅっと軽く握られる。温めるような仕草で。
「あたしは何もしてない。少なくとも特別なことは何にもね。ただ毎日、暗い顔した子どもに振り回されてただけよ」
「……?」
「あの子が表面上だけでも持ち直したのは……そのきっかけって言えるのは、蛍、あんたなの」
「?」
それから鳴虎が語ったところによれば。
――あのころの時雨は、ひどかった。
そりゃ両親をいっぺんに二人とも亡くしてるんだから無理もないけど。最初は親が死んだこと自体呑み込めてなくて、会いたがったり泣いたりしてた。
で、とうとう現実を受け止めてから……なんで自分が生きてるのかわからないって顔になっちゃったの。
自暴自棄って感じで、ろくに食事も摂らなくて。まず自分で食べようって気がないから、何度もあたしが無理やり介助してやってたくらい。
今思うとちょっと……いやかなり強引だったかも。でもそうでもしなきゃホントに何にも食べないんだもの。まぁ何にしてもとっくに時効よ、時効。
で、そのうち病室を抜け出すようになったの。大変だったわよ、あたしと椿吹で手分けして、毎日必死に街じゅう探し回ったんだから。
……それも踏切とか橋の上とか、毎回ゾッとするような場所にいるのよ。ただ突っ立ってるだけだったけど怖かった。
だからあの日、あの子がいつもの調子で河原に行ったのも、きっとろくな理由じゃなかったと思う。あとで聞いても言わなかったけどね。
いつも連れ戻すまで何時間だって帰らなかった。でも、あの日だけは違った。
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