八、刻《とき》の名残り
鳴虎がぱっと振り向いたとき、黄みがかったミディアムボブの茶髪がひらりと舞った。それから蛍光灯のややもすれば冷たい光が、前髪を頭頂に咥え込んだバレッタに反射して、きらりと光る。
たったそれだけのことに秘かに面食らった匡辰と同じように、彼女もちょっと驚いたふうにこちらを見つめる。鶯茶の瞳は丸く大きい。
「……え、何?」
呼び止めておいてむっつり黙り込んでいたものだから、鳴虎は訝しげに眼を細めた。
「あ、いや。……その、君の部屋に行ってもいいか」
「えッ……な、何、急に」
「……勘違いしないでくれ、個人的な用件じゃない。例の〈騒念〉の件で確かめたいことがあるだけだ」
「は……はぁ、そう? じゃあ紛らわしい言い方しないでくんない?? ……あーっと、うちに来るのは別に、構わないけど」
彼女はそこで妙に素早く背を向けて、わざとかと思うくらい大きな音を立ててドアを開いた。
彼女は平均より小柄だ。ゆえに狭くて華奢な背中に、いち班を背負っている。
そうするだけの実力と器が認められているし、それも当然のことであると、かつて相棒として背を預け合っていた匡辰は思う。
同時に今はひどく、遠く感じる。それというのも。
「……あの、ねえ、匡辰。時間……ちょうどいいし、ついでにうちでお昼、食べる?」
鳴虎が妙に立ち止まっていると思ったら、こちらに背を向けたままそう尋ねてきた。
身体で戸口を塞ぐ恰好になっているのはわざとだろうか。そうしないと、匡辰に逃げられるとでも考えたのかもしれない。
「そうさせてもらえると助かる」
「わかった。……残り物しかないけど、文句言わないでよね」
廊下に出ると一気にあたりがささやかな雑音で満たされる。人の靴音、衣服が擦れ合う音、扉の開閉、それからいくつかの声。
葬憶隊に勤める職員は戦闘員よりも多い。医療、技術、事務に経理など、内勤の人間たちがいてこそ自分たちは使命に集中することができる。
ここにはこんなにも大勢の人たちがいて、それでも匡辰にとっては鳴虎は唯一無二のただ一人だった。
そう――『だった』。過去形になった。
した、と言い換えてもいい。
実際のところは……まだ完全には、割り切れてはいないけれど。
遡ること半年前、萩森鳴虎と椿吹匡辰は婚約をした。そして二カ月前に関係を解消した。
別れを告げたのは、匡辰からだった。
*♪*
とりあえず今日は安静にしているようにと指示されていた蛍は、とりあえずベッドの上で軽いストレッチなどをして暇を潰していた。本当は筋トレや素振りをしないとすぐ身体が鈍ってしまいそうで不安だが、まだあちこち痛むのは事実だし、無理して回復が遅れたりしたら本末転倒だ。
せっかくなので通信教育の動画も再生している。今なら少しは真面目に授業を聞けそうだ。
そんな感じで過ごしていると、ノックの音もそこそこに扉が開いた。
「よー蛍、調子どうよ? オレのほうは全然ダメだわ。あーいや体調はいつも通り普通に元気だけど例の『つぐみ』の調査の話ね? もー何もひっかからん。ひらがなカタカナ漢字ぜーんぶ試して百万回は検索したけど虚無だよ虚無」
入ってくるなりベラベラくっちゃべりながら、時雨は遠慮なしに蛍のベッドにどっかと腰を下ろし、〆にうーんと伸びをした。
その屈託のなさすぎる仕草に蛍はホッとする。昨日は彼も随分と落ち込んでいたから、その状態を引きずってはいないかと少し心配だったのだ。
「……そいつ、その『つぐみ』って子を自分が殺したって言ったんだよな? ここの資料庫にないってことは、少なくとも音念事件としては処理されてねーことになるな」
「……」
「そ。別の事件か、もしくは事故か。そーなるとあれか? 推理モノの探偵みたく図書館とか行って、昔の新聞調べるしかねーのかなぁ。でもあれさぁ、たぶん記事の内容ってデータベース化されてないよな? じゃあ一枚一枚読むしかないんか? うわ超ダリ~……」
「……」
「おっ、それもそーね。ちょい待ち」
ちなみに蛍は『先にネット検索してみたら』と言ったのだ。事件や事故なら、よほど昔のことでない限りニュース記事があるかもしれない。
果たして時雨はしばらく端末をいじっていたが、うー、という心許ない唸りとともに顔を上げた。
「いくつか出てきたけど絶対違うぞこれ。写真ほら、こんな歳上だし、少なくとも蛍と間違えるはないわ。地域もぜんぜん遠いし。他は……あー、こっちは加害者だ、ないな。これとか会社名かなんかっぽい、もう人間ですらねぇじゃん。
ん~……残るは事故の線か。でもさ、事故って死んだ人の名前まではあんま載ってなさそうじゃね?」
確かに。プライバシーを考慮して、二十代女性、のようなぼかした書き方をしている記事もある。
どうしたものか、と蛍が考え込んでいたら、時雨がぽつりと言った。
「まぁうだうだ言ってねーで調べねぇとな。蛍の親、見つかるかもしんねーし」
「……」
蛍はぱちくり瞬きをした。
そんなことは言われるまでもなくわかっていたはずなのに、なぜか今まで頭になかった。……無意識に考えを遠ざけていたのかもしれない。
この十年間、想像してみたことがないわけではなかった。両親がいるのなら、それはどんな人たちで、自分は彼らに何と呼ばれていたのか。
手掛かりなんてほとんどないから、ちっともイメージがわかないけれど。
あるのはひとつだけ。名前の由来になったペンダントを、おもむろに首元から引っ張り出す。
紫と青灰色が涼しげなマーブルを描く、誰かの涙のような雫型。実のところきちんと調べたわけではなく、鳴虎が『たぶん蛍石じゃない?』と言っただけだが、それを聞いた時雨の笑顔が忘れられない。
『じゃあ蛍! とりあえずホントの名前がわかるまでさ、蛍って呼ぶよ。いいだろ?』
あの日。あの瞬間から『清川蛍』の人生が始まった。
蛍にとっては、記憶もないそれ以前の生活なんて、存在しないのとほとんど同じ。
(……私が『蛍』じゃなくなったら)
家族、なんてわからない。同じ家で暮らしている人という定義なら、時雨や鳴虎のほうが、遥かに長く一緒にいる。
(時雨ちゃん、どうするんだろう)
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