十二、慰みのエチュード②
「……うーん、ちょっと咽頭が腫れてるな。自分でも違和感あるんじゃない? しかしスケジュールを見るかぎりそんなに激しい訓練じゃないはずだけど」
「アー、ケッコウ自主練シテるノデ、ソレカモ」
「なるほど。張り切るのはいいけど、適度に喉を休ませないと。いざというとき使いものにならなくなってたら意味がないしね」
「ンー……ワカリマシタ」
思わずしょぼんとする蛍に、お医者さんは困ったように笑う。
そのあとも優しい口調の忠告が続いた。
なんでも尉次から共有されたデータによれば、反音念としての能力を使うことは少なからず肉体に負荷がかかるらしい。もともと全く異なる存在だったのだから無理もないか。
本来、人間の身体は超音波を発さない。つまるところ蛍――いや、この場合はつぐみか――の喉は高周波音に対応していないし、ましてやそれがジェットエンジン並みの爆音ともなれば、発声のたびに重大なダメージを受けるのだ。
ある程度までは耐えているのは、すでに十年かけて馴染んだ反音念の霊体が装甲の役割を果たしているかららしい。
それがここ最近は訓練のしすぎで保護が追いつかず、喉の炎症に繋がっていると。
そういえばハナビと戦ったときも、たった数回叫んだだけでひどく噎せてしまって、彼女を倒せなかった。
自分が人間でないなら人の限界を超えられる、と息巻いていた少し前の自分が愚かしく思えてくる。これでは人外の才能を人間の部分が封じているようなもの。
……ひどい矛盾だ。
人の身を纏えばこそ時雨と出逢えた。彼のためにハナビを倒したいのに、人間のままでは叶いそうにない。
悲願達成のために完全に人間でなくならねばならないとしたら、それはもう、時雨との永遠の別れに等しいのではないか? そんな方法があるかどうかは知らないけれども……。
「えーっと『患者さん』? そんなに落ち込まないで」
「帰リタイ……」
「えっ?」
思わず本音が漏れてしまった。咄嗟に誤魔化そうとしたが、蛯沢さんにはしっかり聞き取れてしまったらしく「訓練、中断しようか?」と聞き返されてしまった。
そういう意味じゃない、そんなわけにはいかない、と蛍はふるふる首を振る。しっかり否定しないと、もし温井さんあたりに伝わったら本当に止めさせられてしまいかねない。
少し思い詰めてるのかな、と蛯沢さんは言った。
――君にはたしかに人にはない特別な力がある。けど、それを使うかどうかは君自身が自由に決めていいことだ。
ましてやハナビは君を殺そうとしてるわけで、怖いのは当たり前だよ。無理して戦わなくてもいい。
そのために特務隊がいるんだし、休むのも仕事のうちだからね――。
なだめるような言葉は、けれども蛍の苦しみを癒してはくれない。
「……。別ニ、ハナビニ襲ワレルノガ怖イワケジゃナイデス。
ソレヨリ、アイツヲ放ッてオイタラ、マタ誰カガ殺サレルカモッテ思ウホウガイヤダ。一緒ニイル人タチマデ危ナイ目ニ遭ワせタクナイ。
……目ノ前デ、時雨チャンガ殺サレタッテ思ッタ時、本当ニ、一番怖カッタ……」
語っていたら涙が滲んできた。
生きた心地がしない、というのはああいうことを言うんだろうと思う。生き延びられたとしてもなんの救いにもなりはしない、己が人ならざる存在と知った今は、より一層強くそう感じている。
時雨のいない世界でなんて、人間として生きていてく意味がない。
蛯沢さんは静かに頷き、蛍の言葉を促す。
「アト……照廈ノ家カラ、早ク出タイ」
「それはどうして? 何か困ってることがあるとか?」
「エエト、ソノ、アー……生活面ノ問題デハナイんデスケド……寮ト違イスギルカラカモ。オ姉チャ……班長タチトモ会エなイシ、ホームシックナノカナ……」
さすがに照廈兄弟と留理子の話はしづらくて、理由の部分はぼかしてしまった。とはいえ、胸を塞いでいる岩の存在を誰かに伝えられただけでも、ほんの少し楽になった気がする。
本当のことをぶちまけられたらもっと良いのだけど、どこで誰が聞いているかわからない。自分の耳が良すぎるからか余計にそう思う。
ましてやここはテルイエ技研――働いている人はみんな尉次の部下だ。漏れたら間違いなく彼に届けられる。
……みんな、事実を知ったらどう思うだろう。
一人くらい蛍の気持ちをわかってくれる人がいるんだろうか。
*♪*
蛯沢はカウンセリングに使った会議室から出ると、技研のエントランス脇にある来客者向けの待機スペースを借りて、蛍の医療記録を見直していた。
一度心肺停止してから反音念と融合して蘇生した患者なんて他に例がないので、医学的にも興味深い。
生理的な数値の上では普通の人間とさほど変わらないが――もちろん、声を除いて。声量や周波数に至ったとたん、機材がおかしいんじゃないかと言いたくなるような、超常的な桁の数字が並ぶのだから。
これでは喉を痛めて当然というより、少し腫れた程度で済んでいることのほうが奇跡だ。
処方箋を仕上げ、荷物をまとめて駐車場に出ると、釜寺の姿があった。
「休憩?」
「いや、帰るところです。エビさんこそまだ居たんですね。でもちょうどよかった、中じゃ少し話しづらいから」
「……やっぱそうだよね」
蛯沢も苦笑交じりに同意する。というのも、来所時に技研側から提示された契約書に『弊社館内での会話はすべて自動的に記録される』とあったからだ。
立ち入り可能な区域もかなり限られていて、接する所員もごくわずか。よほど騒念の件を漏らされたくないのだろう。
「お医者さんとしてはどう思います? 彼女のこと」
「痛々しいね。身体への負担をもう少し考慮してあげるべきだ、喉がやられ始めてる」
「道理で。……ここ二、三日は波長の乱れが増えてたんで、器質的なエラーじゃないかと思ってました」
音響解析官の相槌は淡々としている。御手洗にもややその傾向はあるが、彼ら科学者は研究そのものへの熱意に関わらず、対象となる人や物に接する態度は一貫してクールだと思う。
客観性を保たねばならないという点においては医者も同じ。ただ、こちらはもう少しナイーヴな面もある。
そこが同じ科学の徒としての、研究者と臨床医の違いではないだろうか。
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