五、残る嗄声
〈音念〉は普通、自らの身体から放つ音波でもって周囲を無作為に攻撃する。そもそも彼ら自身にはそんな自覚すらないように思えることも多い。
自我がはっきりしている個体のほうが少ないし、それだって単に人のふりをしているだけで、およそ知性とか思考などというものを持ち合わせているようには見えないものだから。
白髪の少女が躍りかかってきたとき、蛍は軽いパニックに陥った。
自分という個人を認識したうえで明白に殺意を向けている。細い両腕の肘から先を、ドリルのように高速回転させて。
そんな音念、見たことも、聞いたこともない。
咄嗟に祓念刀で受けようとしたが、触れた瞬間に凄まじい振動を伴う不協和音が生じた。
後ろにたっぷり五メートルは吹き飛び、咄嗟に受け身を取りながら、蛍光灯の破片やら何やらが雑然と散らばる中を転げる。打ち身の鈍痛と切り傷の鋭痛が同時に蛍を襲った。
『う、……ッ』
起き上がる暇もなく少女が肉薄する。今度はろくな抵抗もできないまま、音速で捻じれた爪先を心臓めがけて振り下ろされ――……。
「――待て!」
またひどい不協和音がした。その中に少女の悲鳴が混じって聞こえたのは気のせいだろうか。
痛みに霞んだ視界の中、薄暗い室内に黒っぽい人影を数える。ひとつ、ふたつ……三人分。
それぞれの手に祓念刀を構え、先頭に立つ背の高い男性は、コバルトブルーの半外套を身に着けている。
あれは班章といって、班長の専用装備。青色が示すのは椿吹班だ。
二人いる班員のうち一人が「あ、清川さんじゃないですか」と蛍を振り返って呟く。もう一人もさっと辺りを見回し「萩森班長……どころか空蝉もいないのか? 珍しいな」と相槌を打った。
起き上がれない蛍は、ただそれらを眺めているだけ。
「二人とも敵に集中。……外見は子どもだが、音念には変わりない。油断はするな」
「はいッ」
「……あー、あの、班長。なんか数値が……」
部下が不穏な声を上げても、椿吹は振り返ることなく少女を見据えている。
しかし祓念刀の挙動がおかしいのは三人も同じらしかった。蛍のそれと同じような異音を鳴らしていることに、彼も気づかないはずがない。
とはいえ班長ともなれば慣れたもの、視線は少女に向けたまま手探りで鍔に触れる。そこに祓念刀の制御盤があるのだ。
自動検知機能が正常に働かないなら、手動に切り替えるしかない……と判断したのだろう。
彼の動きを見て、班員たちも声に出すことなく自然とそれに倣う。
対する少女はというと、彼らを警戒して睨みながら、足はじりじりと後退を始めていた。
先ほどまでの、蛍に向けていたような悪意はない。彼女は今や怯えるような表情を浮かべており、その下の上体は空間が歪んだように醜く崩れて、濁った虹色の光を発していた。
「……悪いけど、あなたたちの遊び相手になる気はないの。帰って着替えなくちゃ」
「逃がすはずがないだろう。――回り込め!」
「了か――」
班員二人がすぐさま左右に展開する。三方向から少女を追い詰めようとしたわけだが――少女は向かって左側の一人へと、体当たりした。
寸前に手をまたドリル状に変えて。
血飛沫が舞う。
くぐもった呻き声と、少し遅れて、甲高い笑い声。
……あははははははは。うふふふふ。あははははははははははは……!
「悦哉! あ――おまえ、おい、てめッ……待ちやがれ!!」
「救難要請を出しなさい!」
幾つかの足音と一緒に、蛍の意識が急に遠ざかっていく。
視界は変わらず霞んだまま、今は赤まだらに染まっていて、黒い人影が二つ揺らめいているのしかわからなかった。倒れている人と、それを支えようとする人と。
完全に落ちる前に思い浮かべたのは時雨の顔。彼も今日はクラスの友人たちと一緒に帰っただろうし、途中どこかに寄ったりしたのかもしれない。
――今日は一緒じゃなくて、良かった。
*♪*
……たる。ほたる……蛍!
「……」
「蛍! あー良かった眼ェ醒ました~!」
「こら時雨、病室なんだから静かにしなさい」
眼を覚ますと支部の救護室にいた。視界に飛び込んできたのは青ざめた時雨で、その横で鳴虎が呆れと安堵を半分ずつ混ぜたような表情をしている。
とりあえず起き上がろうとしたら、時雨にすごい勢いで止められた。
どのみち身体じゅう自分でも無理だなと察するくらいの痛みも感じ、大人しく布団に沈む。消毒液の臭いがぷんぷんしているし、思ったよりしっかり怪我をしてしまったようだ。
寝転んだまま『なにがあったの』と尋ねると「そりゃこっちの科白だっつの」と返される。
まだ情報共有されていないのか。ということは、それほど長く気を失っていたわけではないようだ。
「さてと、……一応、椿吹にお礼言ってこようかな。時雨は蛍見てて」
「へーい」
鳴虎はぽんぽんと蛍の頭を撫でてから、一瞬だけ時雨を意味ありげに見つめた。結局何も言わずに病室を出て行ったけれと。
時雨と二人、静寂の中に残される。彼が黙っているなんて珍しい。
ひとまず自分が見聞きしたことを話して色々と相談したい。さすがに読唇で伝えきれる内容ではないので、端末を取ってもらおうとしたところで。
ふいに時雨が手を握ってきた。
浜に打ち上げられた魚よろしく、とたんに忙しなく心臓が撥ねる。
だって、……軽く掴む感じじゃ、ない。痛いほど強く握り込まれて、まるで、もう手放したくないと言われているみたいだ。
「……あのさ、蛍」
胸の高鳴りはすぐ苦しさに変わった。時雨の声音は鉛のように重くて、布団の上から蛍を押し潰すようだった。
だから、わかってしまう。強く手を握るのは、彼のそれが小さく震えているのを、誤魔化そうとしているからだと。
(時雨ちゃ……)
「めー姐がさ、……話し合えっつーんだけど……何から話していいか、わかんねぇんだよな」
それだけ言って、また黙る。俯き加減の顔にぼさぼさの癖っ毛が被さって表情は窺えない。
つまり、彼もまた、蛍の唇を見ていない。
どんなに強く手を繋いでも、向き合っていても。蛍の心は伝わらない。
喉を掻きむしりたいと思った。そうして何らかの音が出せるなら、時雨に聞こえるなら、どれほど血を流したって構わないのに。
いくら叫んでも、どうせ虚しい空気が漏れるだけ。
握られた手を引っ張っても反応がない。大して抵抗もされない。
だから……それを引き寄せて、噛み付いた。
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